紀尾井ホールに炸裂する伊福部管弦楽、創作の原点

『ブラームスは第1交響曲を書きあげるのに24年、バラキレフは32年かかった。技術的な困難はもちろんだが、自分の持っている民族性と、交響曲の形式を融合させることなど、簡単にできるものではない。』作曲家・伊福部昭が師と仰いだアレクサンドル・チェレプニンが1936(昭和11)年7月に、伊福部の最初の管弦楽作品「日本狂詩曲」(1935)をレッスンの題材にしながら彼に語ったと伝えられている言葉だ。その後、当時北海道東部の辺境、厚岸で森林官として働いていた伊福部は、厚岸の風土を触媒とした「土俗的三連画」(1937)を作曲してチェレプニンに献呈する。すなわち、作曲に於ける自己の民族性を「日本狂詩曲」の"日本"から更に追求、絞り込んでいって、自分が生活しているその土地の気候、景観、風俗、習慣などに密着し、作曲に於けるローカリティーを追求したのだった。
 チェレプニンの言葉は、伊福部に教えを受けた作曲家たちに伝えられて、芥川也寸志や黛敏郎はこれを折に触れて語り、そして綴った。1983年、現在の仙台フィルハーモニー管弦楽団の音楽総監督に就任した芥川也寸志は「真のローカリティーこそが世界に通用する」と説いて、オーケストラの歩むべき道を示した。
 日本の作曲家のなかで、作品が作曲された時のエピソードについて語たり綴ったのは、おそらく武満徹と伊福部昭が双璧だろうと思う。武満が語ることの多かったドビュッシーやメシアンを、彼の作品と組み合わせて演奏することは決して珍しくないが、伊福部が折に触れて語ったチェレプニンやバラキレフが伊福部作品とプログラミングされることは絶えてなかった。バラキレフの「交響曲第1番」が伊福部の作品と共に演奏されるのは、今回がはじめてのことである。
 かつてピエール・ブーレーズが、フランス音楽の管弦楽手法を変革させたベルリオーズの作品を手掛けたように、いま、日本の現代音楽の作曲界を牽引するひとりである作曲家・野平一郎が、名著「管弦楽法」を著わした伊福部昭の初期作品を指揮する日が来た。ご期待下さい。