こどもの領分 反戦の願い

 ドビュッシーが英語で表記したピアノ組曲「Children's Corner(子供の領分)を聴き、吉行淳之介がふたりの少年の交流を描いた短編小説「子供の領分」を読むと、領分という言葉が示す領域は、人のまなざしには見えない世界をも含めた拡がりをみせます。
 こどもの"領分"に大人は金輪際、入ることができません。しかし、大人たちの行動にこどもの領分は侵されます。そのひとつが戦争です。

 1940年に日本政府は、国威高揚、国力誇示の目的をもって皇紀2600年を記念した祝賀行事を、地域、分野を問わず網羅的に計画し、実施しました。一連の行事の終盤を飾る国際的行事として位置付け、12月7日に「紀元二千六百年奉祝楽曲発表演奏会」が開催されました。この演奏会のために委嘱され作曲された、英国の作曲家ブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」は、題名が祝賀行事にふさわしくない作品であるとして演奏されませんでした(注:諸説あり)。この作品は、今やブリテンを代表する作品のひとつとして、世界各国で演奏されていますが、ブリテンの真意はいったいどこにあったのでしょうか。前回、2016年2月のオーケストラ・ニッポニカ第28回演奏会で演奏されたピッツェッティの交響曲も、ブリテンの作品と同じ機会にイタリア政府に委嘱されて、奉祝演奏会で演奏された作品であるのですが、曲の内容はレクイエム的な祈りに満ちたものであることが確かめられました。謎です。
 その2年後の1943年、日本は15年戦争の末期にあり、ガダルカナル、アッツ島などでは撤退や全滅があいつぎ、山本五十六連合艦隊司令官の乗った飛行機が米軍により撃墜されるなど戦局が追い込まれていったひどい時代でした。しかし、国内の空襲はまだ始まっておらず、これに備えて学童疎開が始まったばかりでした。諸井三郎の「こどものための小交響曲」は、そのような年の10月に作曲された、抒情的な美しさに満ちた作品です。同じ年に、諸井は交響的幻想曲「黎明を讃ふ」、交響詩「提督戦死」など、当時の作曲家の多くが委嘱をされた戦時の機会音楽を作曲していますので、一層"こども"に込めた諸井の想いが偲ばれます。
 間宮芳生の「子供の領分」は、世界が全面核戦争に巻きこまれるかと震撼したキューバ危機の翌年の1963年に作曲されました。1950年代の前半に、朝鮮半島の戦争のお陰で景気を向上させる切っ掛けを得た日本は、高度経済成長期に入り、1964年には東京オリンピックが開催されました。曲の冒頭いきなり「でぶ、でぶ、百貫でぶ、電車にひかれてぺっちゃんこ。」と、先制パンチで大人の世界との結界を結んでくるのは、まさに「大人が入れないところ」を表しているといえます。遊びとうたが受継がれ、また生まれてくる場、今は日本から消えてしまった、異年令を含む、露地裏の子供のグループとガキ大将が生きつづけていたこどもの世界のヴァイタリティを生かし、えがき出した作品です。(作曲家の言葉を引用)
 21世紀に入った今の時代は、平和で争いのない暮らしの保障や、豊かな文化の交流を育む社会への希望など、到底求めることができない混濁混迷する世界を形成しつつあります。2004年、野平一郎は作曲家として戦争に反対するアンガージュマンを表明し、こどもたちが歌うことで、こどもたちに戦争をおもいだしてもらう良い機会になることを願って 「ある科学者の言葉」を発表しました。この作品は、2007年にピアノ版からオーケストラ版に改編されて大阪と静岡で演奏されました。オーケストラ版が東京で演奏されるのは、今回が初めてです。

 20世紀を生きた作曲家たちは、どのような世界情勢の中にあっても、自己の芸術的才能のみによって創作するのではなく、時代や社会、人間に向き合う姿勢をもって活動してきました。それぞれの厳しい時代の、豊かな実りの一端を、この演奏会のプログラミングは提示しています。