『ピツェッティの「交響曲」を聴いた時は、私の音楽生活の最高のエクスタシーのひとつでした。あの曲では音楽のクライマックスが管弦楽の音響の増減とは関係なく描き出されて行きます。私の経験の範囲では、こんなことの出来る作家はバッハとモーツァルト、それからフォーレとドビュッシーだけでした。』菅原明朗が1951年(昭和26年)6月の雑誌「音楽世界」に発表した文章の一部です。
加えて1981年(昭和56年)には、次のようにも語っています。『イタリアに対する共感というのは、最初からです。イタリアをのぞいてヨーロッパの文化は考えられないでしょう。欧州文明をつくりあげたのは地中海文化です。ついでヨーロッパ文化に移ったとき、エジプト、小アジア、ビザンチンが後退した。そして、ここにフランス、スペインが入ってきた。両方の文化にまたがっていたのはイタリアです。理屈でなく、イタリアを無視して文化を考えることはできません。』
1967年(昭和42年)になって、菅原明朗(1897〜1988)は初めて渡欧し、イタリアを中心として約半年間にわたってヨーロッパの各地を訪れました。この旅行で敬愛するイタリア近代音楽の巨匠ピツェッティ(1880〜1968)の自宅を訪問することができました。併行して、雑誌「芸術新潮」誌上に「日本人の行かないイタリア1〜8」と題して旅の印象を綴ります。川端画学校で6年間学び、画家をめざしたことのある菅原は、この連載の中で聖堂のモザイクや遺跡の美、彫刻家の人生と仕事について語り、翌年にはこれらをテーマとする「交響的幻影イタリア」を作曲しました。また今回初演される「ピアノ協奏曲」は、「交響的幻影イタリア」が初演された1971年(昭和46年)、菅原71歳の年に作曲をされたまま今日まで静かに眠っていた作品です。
菅原が聴いて法悦感を得たピツェッティの「交響曲」は、1940年(昭和15年)に開催された、皇紀2600年を奉祝する演奏会のための作品として、"大日本帝国政府"によって委嘱されました。忌まわしい戦争の時代の戦意高揚の動きと強く結び付く演奏会であったため、1958年(昭和33年)に東京フィルハーモニー交響楽団とイタリア人の指揮者によって再演されて以来、この作品は国内で演奏されていません。同様の経緯で委嘱されたブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」は、題名が催しにふさわしくないとの理由によって奉祝演奏会で初演されなかったという説のほかにも諸説ありますが、日本の敗戦後には世界各国で演奏されています。
あまり知られていませんが、実はピツェッティの「交響曲」にも彼自身の"レクイエム"としての主題が組込まれているのです。委嘱される前に既に完成されていたという説もあり、未だ謎の多い作品です。
菅原が感嘆したピツェッティの作品と、イタリアの風土と文化に触発された菅原の作品にあたらしい息吹をもたらすため、2013年に伊福部とチェレプニンの作品を指揮して好評を博した阿部加奈子を再びパリから招聘します。そして独奏者は、古典から現代音楽までの幅広いレパートリーを誇り、日本を代表するピアニストのひとりである高橋アキです。ご期待下さい。