第25回演奏会プログラムノート

「2014年5月11日第25回プログラムより転載」
奥平 一

今日の演奏会について

 今年は、伊福部昭(1914〜2006)生誕百年の年にあたる。今日の演奏会のプログラムに並ぶ作曲家たちは、いずれも伊福部の生涯に、深い交流を果たした人々である。A.チェレプニン(1899〜1977)は、伊福部を作曲家として生きることに導いた、唯ひとりの師。池野成(1931〜2004)は、伊福部に師事し、師と共に東京音楽大学に奉職した作曲家である。比べられることではないが、数多い伊福部の弟子の中でも、池野ほど、終生、伊福部を敬愛して、精神的に師の脇で過ごした人物はいなかったのではないだろうか。孤高の、と言う言葉があるが、まったく池野の生涯にふさわしいと思う。プログラムを構成する曲目は、チェレプニンの最初の交響曲、次に寡作な作曲家であった池野の唯一の協奏曲、そして伊福部が作曲した、これも唯一の交響曲である。
 1946年、初めて東京音楽学校(現・東京藝術大学)の教壇に立った伊福部は、当時学生であった芥川也寸志(1925〜1989)らに向かって『ブラームスは第一交響曲を24年かかって書きあげた。バラキレフは32年かかった。真の創作とは、このように息の長いものだ。』と語りかけた。作曲家にとって、交響曲を作曲することはなまじの覚悟ではできない、ということであろう。
 レニングラード、そしてカスピ海と黒海の中間に位置するトビリシで作曲への志を育み、パリで最初の交響曲の作曲に取組んだA.チェレプニン、そして極東の北海道で作曲への志を育み、東京へ転出し40歳で交響曲の作曲に挑んだ伊福部。池野の畢生の協奏曲をはさんで、師弟の交響曲作品が並んで演奏されることの機会を得たことを、喜びたい。
 この演奏会の企画発表後に、伊福部の古参の弟子のひとりであった今井重幸(1933〜2014)氏が逝去された。伊福部の古弟子の中では、作曲と同時に舞台制作の実践と大学における教育に力を注いだ、異色の存在であった。今や世界的に通用する、"舞踏(Butoh)"という言葉を舞踏家・土方巽(1928〜1986)に与えて、自らの演出によってデビューをさせ、数々の舞踊家や俳優らを育成した業績はもっと注目されても良い。オーケストラ・ニッポニカは発足間もない2003年3月に「今井重幸 舞台作品・音楽作品 回顧展」の制作、演奏を行った。また、2007年11月には、文化庁国際芸術交流支援事業に採択された「日越友好合作現代音楽祭 古楽同源・新楽共創 in HANOI」を開催して、今井に作曲を委嘱、「仮面の舞 第五番」(2007)を初演した。また、今井は中学同級の池野を音楽の世界に導き、晩年スペインに住み最後は東京へ引き揚げた池野の面倒をみたのである。そして、池野の「ラプソディア・コンチェルタンテ」の自筆楽譜は、今井が管理していて、この演奏会への協力を得ることができた。このような経緯から、今井の作品を追悼演奏することとした。

A.チェレプニンについて

 アレクサンドル・チェレプニンの名前は、日本の所謂クラシック音楽の分野、特に伊福部に興味を持つ人たちにとっては、良く知られた名前である。それは、日本と中国の作曲家の作品の中からチェレプニンが選んだ作品を出版した「チェレプニン・エディション」によって、また彼が創設・主催した「チェレプニン音楽賞」(中国と日本で各一回で終了)を、伊福部昭の「日本狂詩曲」が受賞したこと、そして伊福部昭をはじめ、小船幸次郎(1907〜1982)、荻原利次(1910〜1992)らに無償で作曲についての講義、教育をしたエピソードによるものである。(特に荻原は、チェレプニンに師事するために上海へ渡った。)これらは、殆ど美談の物語として語り継がれ、幾多のエッセイや論文の中に述べられた。
 しかし、チェレプニンの存在が日本の作曲家たちに様々な影響を与え、音楽史に名を留めているにもかかわらず、彼の音楽作品、特に管弦楽作品が全く演奏されないのはなぜなのだろうか。そして、美談は語られても彼の行動と、それに対する日本の音楽界への"功罪"が語られることは、少ないように思われる。起こった事実を事実として受止めるだけに、留まっている。
 話は少し飛ぶ。日本最初の西洋美術の教育機関であった、工部省管轄下の工部美術学校は、明治初期に浅井忠(1856〜1907)や山本芳翆(1850〜1906)らの洋画家を輩出したが、国粋主義の台頭やアーネスト・F.・フェノロサ(1853〜1908)による日本美術の再評価の動きに押されて、わずか7年で廃校となった。6年後にフェノロサと彼の弟子であった岡倉天心(1863〜1913)の尽力によって設立された東京美術学校(現・東京藝術大学)は、日本画を中心とする教育であった。洋画部門の設置は発足9年後で、黒田清輝(1866〜1924)のフランス留学の帰国を待たねばならなかったし、工部美術学校の成果は引継がれることがなかった。フェノロサの日本美術界への貢献は大きいが、その行動は日本における洋画の発展を遅らせることにつながり、アカデミズムの伝統を創造的に批判し、反発しながら展開するはずであった日本の近代洋画技法のパラダイム転換の機会を永遠に逃した遠因を招いたとも言える。例えば、緑の草原に赤いズボンを履いて、黒い腋毛と足の裏の描写が奇妙にリアルな絵「裸体美人」(重要文化財)を描いた萬鉄五郎(1885〜1927)のフォーヴィズムの画風は、日本の絵画の歴史に突然現れて、萬の前にも後ろにもつながる画家はいない。(参考資料:「みわたせば柳さくら」(秋・旧宮邸の美術館で)対談・山崎正和、丸谷才一 中央公論社 1988) 
 同じ問題が、音楽の歴史にも見出される。チェレプニンは、ありうべき日本に於ける創造的な作曲の姿勢を「ローカリティーを追及することこそが世界に通用する道」と説き、またチェレプニン・エディションを出版した故に、チェレプニンに"選ばれた"伊福部を始めとする何人かの作曲家たちには、"チェレプニン楽派"、あるいは民謡的楽想をとり込む"民族楽派"というレッテルが貼られた。このため、反アカデミズムの象徴となった"チェレプニン楽派"の作品は真正面から評価することを阻害され、レッテルは1960年代まで剥がされることはなかった。当初この楽派に組込まれた形となった、松平頼則(1907〜2001)は雅楽と現代音楽技法を融合した作風に急速に舵を切り、生涯作風を変えなかった清瀬保二(1900〜1981)は武満徹(1930〜1996)が慕ったために見直され、伊福部は名声を得た弟子の芥川也寸志、黛敏郎(1929〜1997)、松村禎三(1929〜2007)、石井眞木(1936〜2003)らが作品の素晴らしさを世に説いたために復活を果たした。チェレプニンの存在は、当時の日本の作曲界をアカデミズムと反アカデミズムに分割させた。あたかも、他に作曲家が身を置く場所は、このふたつの分野以外には存在しないかのごとくにである。チェレプニンの存在は、日本における作曲技法受容に潜む苦悩と矛盾を、表に噴出させた。例えば、日本の音楽史に於ける伊福部作品の本来の立ち位置はどこにあるのかが、もう少し論議されても良い。伊福部だけのことではなく、この問題の根は深い。作曲家の生前に盛んに演奏された作品も、作曲家が亡くなると、途端に演奏されなくなる。石井眞木しかり、三善晃しかり。
 チェレプニンの経歴を、彼の作品の演奏歴にそって追ってみたい。彼は1935年と1936年の来日時に、当時極東で活躍した興行主アレクサンダー・ストローク(1877〜1956)のマネージメントによって、新交響楽団(現・NHK交響楽団)の定期演奏会で自作を演奏している。ピアノ協奏曲第1番Op.12(1920)及び組曲「祝典音楽」Op.45a(1930)が第151回定期ニコライ・シフェルブラットの指揮で、ピアノ協奏曲第2番Op.26(1923)が第171回定期ジョゼフ・ローゼンストックの指揮で、取り上げられている。ローゼンストックは自伝「音楽は我が命〜ローゼンストック回想録」(中村洪介訳 日本放送出版協会 1980)の中で、チェレプニンの印象を次のように述べている。『日本に来た最初の年、私は、当時横浜在住のロシア人作曲家アレキサンダー・チェレプニンに出会った。彼とはその第二ピアノ協奏曲を協演したが、魅力に溢れ、節度を保ち、全く玄人の手に成る作品で、チェレプニンの評価を高らしめるものだった。戦後、私達はニューヨークで再会した。彼は中国人の夫人〜この人もまた優れたピアニストである〜、それに才能豊かな三人の子息と一緒に住んでいた。チェレプニンは自作を指揮するため、しばしばアメリカ国内とヨーロッパに招かれていたが、込み入った問題にぶつかると、私に何度か指揮上の助言を求め、私も喜んでごく打ちとけた助言をしてあげた。彼は偉大な音楽家で、教養深い個性を持ち、友情を大切にしてくれた。』当時ニューヨークでのローゼンストックは、ニューヨーク・シティ・オペラ総監督の地位にあり、彼のチェレプニン評は確かなものであろう。
 チェレプニンの主な管弦楽作品の初演記録を追ってみると、欧米における彼の音楽への評価が垣間見える。交響曲第1番(1927)=ガブリエル・ピエルネ指揮コンセール・コロンヌ、交響曲第2番(1951)=ラファエル・クーベリック指揮シカゴ交響楽団、交響曲第3番(1951)=フェビアン・セヴィツキー指揮インディアナポリス交響楽団、交響曲第4番(1957)=シャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団、ディヴェルティメント(1957)=フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団、と演奏家は綺羅星のごとくであり、ピアノ協奏曲もピエール・モントゥー指揮パリ交響楽団、ラファエル・クーベリック指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団らが初演をしていて、チェレプニンへの評価が高かったことが窺える。ローゼンストックは、1952年にチェレプニンの歌劇「妖精と農夫」をアスペンに於いて指揮している。上記の指揮者の中に、伊福部の「日本狂詩曲」(1935)をボストンで初演した指揮者フェビアン・セヴィツキーの名前が見える。実はセヴィツキーは、1931年にチェレプニンの作品「ヴァイオリン、チェロ、ピアノと弦楽合奏のための小協奏曲」を初演しているのである。伊福部は、米国のセヴィツキーに「日本狂詩曲」の楽譜を送った後に、チェレプニン賞に応募し一等を獲得する。翌年4月に「日本狂詩曲」は、セヴィツキーにより初演される。同じ年の7月に伊福部は東京でチェレプニンに初めて会うことになる。この順序を追ってみると、従来初演の実現は、伊福部の朋友、音楽評論家・三浦淳史(1913〜1997)がセヴィツキーに書いた手紙によって、また音楽賞受賞により実現したと伝えられているが、これ以前にセヴィツキーがチェレプニンの作品を指揮していた事実も見逃せない。セヴィツキーは、他にも「ファンファーレ(11の金管群、打楽器群のための)」(初演)など、チェレプニンの作品を演奏している。

池野成について

 池野成は、北海道札幌市に生まれた。父は法務官、祖父・池野成一郎(1866〜1943)は銀杏と蘇鉄の精子を発見した著名な植物学者であった。池野は都立旧制青山中学校で、音楽部を設立した今井重幸に出会い、音楽にのめり込んだ。東京藝術大学に進学し、池内友次郎(1906〜1991)、伊福部昭に師事。「序奏と交響的アレグロ」(1952)で毎日音楽コンクール(現・日本音楽コンクール)に入賞。翌1953年、ノイエ・タンツの系譜を継ぐ江口隆哉、宮操子に委嘱された舞踊曲「作品七番」を改訂して「ダンス・コンセルタンテ」とし、東京交響楽団第58回定期演奏会で取りあげられて一躍注目された。東京芸術大学、及び伊福部と共に東京音楽大学で作曲、管絃楽法の講師を勤めて、多くの人材を輩出した。寡作な作曲家であるだけに、作品の密度は濃い。金管楽器、打楽器の強烈なエネルギーを持つ音に対する執着は、池野の作品の特徴である。数多くの映画音楽を手掛け、今井正監督作品「越後つついし親不知」、黒田義之監督作品「妖怪大戦争」、川島雄三監督作品「雁の寺」、福田純監督作品「電送人間」、山本薩夫監督作品「氷点」、吉村公三郎監督作品「夜の蝶」などがある。 
 東京藝術大学時代に出会い、生涯の友となった松村禎三の池野評が、人物を捉えていて素晴らしい。「彼(注:池野)は伊福部昭先生の門下であった。藝大で管弦楽法を教えてくれた先生に出会って衝撃を受け、ヨーロッパ一辺倒の音楽から絶縁しようとして、先生が辞められたのと同時に藝大を中退してしまう。〜中略〜彼こそは演奏会用の素晴らしい管弦楽曲を書かなくてはいけなかった。しかし、初期の作品といくつかの舞踊曲以外には、数曲の打楽器を中心にした曲と、一曲のヴァイオリン協奏曲を残しただけで、彼はその生涯を閉じてしまった。
 池野ははしたない自己顕示を極端に嫌った。〜中略〜物腰が低く、慇懃ではあるが、まさにしたたかな精神貴族であった。この潔癖からくる多くの苦しさに彼は堪えつづけたと思う。」(「松村禎三 作曲家の言葉」アプサラス編 春秋社 2012)
 オーケストラ・ニッポニカは、2008年に第14回演奏会で、池野の「 ダンス・コンセルタンテ」を55年ぶりに演奏した。舞踊界では江口隆哉の代表作とされるこの作品を舞踊音楽として展望すれば、山田耕筰(1886〜1965)「明暗」(1922)、深井史郎(1907〜1959)「都会」(1936)、伊福部昭「プロメテの火」(1950)など、日本におけるノイエ・タンツの舞踊音楽に連なる。これらの作品は、舞踊と一緒に再現されればその作品の生命を吹き返すに違いない。

伊福部昭について

 伊福部昭は、1914年(大正3年)5月31日北海道釧路町生れ、2006年(平成18年)2月8日東京に没した。日本を代表する作曲家のひとり。北海道帝国大学農学部林学実科出身。作曲を独学で学び、北海道大学在学中より作品を発表し、作曲コンクールや海外で作品が初演されるなど、音楽を職業とせず且つ地方に住まいながら第一線での創作活動を実践する。北海道庁地方林課厚岸森林事務所、北海道帝国大学演習林事務所、宮内省帝室林野局林業試験場を経て1946年東京音楽学校(現東京藝術大学)作曲科講師就任(〜1953年まで)。1974年東京音楽大学作曲科教授として着任、1976年には同大学長に就任した(〜1987年まで)。1980年紫綬褒章、1987年勲三等瑞宝章を受章し、2003年には文化功労者に顕彰された。
 代表作に、「日本狂詩曲」(1935)、「交響譚詩」(1943)、「シンフォニア・タプカーラ」(1954/1979)、「交響頌偈釈迦」(1989)、映画音楽の分野では本多猪四郎監督作品「ゴジラ」(1954)、市川昆監督作品「ビルマの竪琴」(1956)などがあり、声楽作品、室内楽作品、器楽作品(邦楽器を含む)、舞踊作品など多方面の分野に、多くの作品を残す。
 また、著作として作曲を志す者に必携の書「管絃楽法」(1953/1978/2008音楽之友社)、民族楽器の収集家としても著名であった。

 伊福部の経歴やその生涯に於けるエピソードは、もはや語り尽くされている感がある。エピソードに真実が宿ることもあるが、今後は、伊福部の作品そのもの、楽譜そのものに真正面から向き合った評論、あるいは作品の演奏方法の具体について、論議が活発化することを期待したい。それが、伊福部の作品演奏の伝統を作り、更には新たな演奏の魅力を生み出す原動力となるからである。
 昨年7月に開催されたオーケストラ・ニッポニカ第23回演奏会「石井眞木へのオマージュ」のプログラムを編集している際に、偶然のことから貴重な資料が発見された。それは「伊福部昭古稀記念・交響コンサート」(1984)の事前打合せの録音と写真で、録音を聞いてみると中身は、伊福部と芥川也寸志、池野成、石井眞木、松村禎三らが2時間半に亘り座談をしているのであった。(この演奏と座談は、本年4月に3枚組のCDとして"風樂"から発売された。)
 その中で、伊福部は自己の創作の立場と理想を「新古典主義」にあると発言している。伊福部は、著作「音楽入門」(新装版 全音楽譜出版 2003)の中で、新古典主義を次のように定義している。『あらゆる破壊と実験に疲れた美術は、しばしば古典に還れと叫ばれておりますが、音楽にあって、この主張を同調したものを新古典主義と呼んでおります。〜中略〜この主義者たちは、無制限に表現手段を広げたことによって、かえって芸術は無気力を招いたと考えるのです。この無気力を救うために、再び古典の制限を規範とする思考に立ち戻ろうとするのです。〜中略〜手法の上における古典化は、単に古典時代の作家の様式、明確に言えば、チュートン(筆者注:ヨーロッパ、ゲルマン系諸民族・言語の称)のイディオムの模倣に過ぎぬものに流れやすいという欠点をもっているのです。私たちは、真の古典主義的見解には賛同を示すにしても、雷同的な擬古典的な作風はこれを否定しなければなりません。』
 ガストン・バシュラール(1884〜1962)は、空気、水、火、木、風、岩、土などがいかに詩的想像力をかきたてるかを説き、物質をじっと見つめることでひらかれてゆく想像力のことを「物質的想像力」と呼んだ。著作「蝋燭の焔」(渋沢孝輔訳 現代思潮新社 2007)の中では、「むかし、揺らぐランプの炎をみつめることによってはぐくまれた想像力は、電灯という近代テクノロジーのもとで失われてしまった」と述べている。
 伊福部の音楽は、バシュラールの説く「物質的想像力」を糧にして生れたことであろう。伊福部が幼年時代を過ごした釧路や音更、林務官として過ごした厚岸の町と釧路西部森林管理区域での日常における"蝋燭の焔"は何であったろうか。極北の美しく厳しい自然、初夏の爽やかな風と厳冬の叩きつけるような吹雪、漆黒の闇と楽譜を照らすわずかなランプの光、摩周湖、大きな木の威容、鳥の声と獣のうなり声、厚岸の海、海に切立つ崖、海の風音と山の木々のそよぐ音、アイヌの歌と踊りと倭人入植者の民謡。
 これらのことに思いを巡らせながら、伊福部作品の楽譜に真正面から向き合いたいものである。

今井重幸 ゴジラのモティーフによる変容「ゴジラのフラメンコ」(2004)

 この作品は、伊福部昭が2003年度の文化功労者顕彰を受けたことを祝して、今井が師に献呈した作品である。
易しい作品に聴こえるが、構成は綿密。序奏=主題提示部=カデンツァ=主題変容部=コーダ、となっていて、主題変容部では、今井が数多く作曲した「シギリア・ヒターナ」(シギリアを起源とするスペイン・ロマのジプシー音楽)と称する作品に必ず現れるカデンツァ・モティーフ「レ‐ミ‐ファ‐ソ/ラ‐シ♭‐ラ‐ソ/ラ‐シ♭‐ラ‐ソ/ラ」と、"映画「ゴジラ」のメイン・テーマ"とが呼応、重ねあわせた主題が使用されている。
序奏:低弦に"ゴジラの主題"が提示される。同時に、金管楽器群が三連のリズム動機を刻む。練習番号1で、ゴジラの主題は木管楽器に移る。この時、本多猪四郎監督作品「キングコング対ゴジラ」(1962)のメイン・テーマのトランペットによる動機の一部が、対旋律としてホルンによって2度奏される。
主題提示部:練習番号2から、"映画「ゴジラ」のメイン・テーマ"が弦楽器によって提示される。テュッティの一撃で、オーボエとフルートによる自由なカデンツァが入る。オーボエのカデンツァ旋律には、ゴジラのメイン・テーマと、今井の「シギリア・ヒターナのカデンツァ主題が仕組まれている。
主題変容部:今井の「シギリア・ヒターナは、6/8拍子と3/4拍子が交互に繰返され、高揚していくフラメンコ音楽である。ゴジラのメイン・テーマ「ドシラ/ドシラ/ドシラソ」は、ヴァイオリンのソロから始まる「シギリア・ヒターナのリズムと旋律に"変容"して、オーケストラは徐々に高揚していく。
コーダ:冒頭、"ゴジラの主題"と同時に金管楽器群によって刻まれていた三連のリズムが現れて、フラメンコを連想させて熱狂的に終わる。
フラメンコ舞踊家を数多く演出し、スペイン料理店を経営するまでにのめり込んだ今井にとって、スペイン文化は生涯の主題のひとつであった。

初演:2014年5月11日紀尾井ホール オーケストラ・ニッポニカ 指揮:阿部加奈子
編成:fl(pic持替), ob, cl, fg, 2hrn, tp, 2tb, tim, sd, b-tom, s-cym, t-t, cast, pf(又はhp), 弦楽5部
使用楽譜:スコア 作曲者自筆、パート譜面製作 由谷一幾

A.N.チェレプニン 交響曲第一番 ホ調 作品42(1927)

 チェレプニンについて、日本語で読める文献があまりにも少ない中、チェレプニンについての論文を発表している研究家の熊沢彩子氏、またチェレプニンの子息たちと直接の交流を持つピアニスト・高橋アキ氏からの貴重な寄稿が掲載されているので、ぜひお読み頂きたい。
 スコアを見て、この作品に驚いた。それは、音楽的な内容が、1936年横浜でチェレプニンが伊福部に説いた、有り得るべき作曲家の創作姿勢とは、大きく隔たっているようにみえたからである。「ニューグローヴ世界音楽大辞典」(第10巻 講談社 1994)のA.N.チェレプニンの項には、この交響曲の作風の説明にも対応し得る的確な解説が書かれている。『チェレプニンの快活で力あふれるコスモポリタンな音楽性の形成には、多くの要素がかかわっている。根底にロシア的な要素は認められるが、ほかの亡命スラヴ人にみられる郷愁や憂鬱さは全くない。モスクワの民族主義的内向性とは反対に、サンクトペテルブルグの自由な開放的性格が認められる。その思考の鋭い思索的な性格は、1913年のピアノのための〈無題〉Op.7の第4曲ですでに示されている。』

第一楽章 (動機No.は、楽章内のみ有効)
 基本的には下記の主題AとBを構成する複数の動機が、形を変えながら対位法的に、時にはフーガ的に、音価を圧縮、拡大され、音列を逆行させる等、ひたすら動機の組合せに徹して曲が形作られている。形式は、楽章の両端に3小節のホルンによるMaestosoを置き、28小節のコーダを持つ。主部は、古典的な形式を構成せず、動機の組合せを並列に並べて、多彩な作曲技法を誇示するかのように推移、進展する。
 冒頭、下降する増4度の音型のテュッティで開始。これが、動機@。
 次ぎに、ホルンがユニゾンで、主題Aを吹く。主題Aには、この楽章に重要な2つの動機が含まれている。ひとつめは動機A:上昇する「シ♭‐↑ミ♭」の4度の音型。ふたつめは動機B:「ミ‐↑ソ‐↑ラ♭‐↓ソ‐↓ファ♯‐↓ファ♭‐↑レ」。
 続けて、第1ヴァイオリンに主題Bが出る。主題Bにも繰り返し出現する2つの動機からなる。動機C:「シ‐シ‐シ‐シ‐シ‐シ」と同じ音を6回、動機D「シ‐ラ♯‐↑レ‐レ♯‐ミ」の3度を含む動き。以降、この動機CDを含む48小節間は、「ド‐レ‐レ♯‐ミ‐ファ♯‐ソ‐ソ♯‐ラ♯‐シ‐ド」の9音音階から構成されている。
 チェレプニンは、この交響曲を作曲する前年には9音階からなるいわゆるチェレプニン音階を使い始めたと言われているが、この楽章の9音階は、いわゆるチェレプニン音階ではなく、メシアンの「移調の限られた旋法 第3番」の音列と同じである。但し、この3番の開始から第3度音の音から音階を開始すれば、チェレプニン音階となる。このような、チェレプニンの嗜好は、20歳のピアノ作品「DANCE Op.2-2」(1919)に早くも見られて、3オクターブに亘る半音と増2度から構成される7音階が現れる。この作品の作曲技法もまた、交響曲第1番のこの楽章に類似している。
 さて、上記の48小節間で動機の組合せが最も複雑を極める個所では、9音階で上昇型・下降型、音価の圧縮・拡大加工された5種類のスケールと、バスに動機Cが繰返される。その上に、トランペットが「ソ‐ミ‐レ♯‐ド‐シ‐ソ♯‐ソ」とゆっくり下降する音階こそ、チェレプニン音階である。9音音階はこの楽章を支配しているが、和声的に使いこなされてはいない。
 次の練習番号5から36小節間は、木管楽器群が、動機@+A、動機Bの組合せで、軽快でフーガ的動きとなる。そこに、動機CとDが相の手を入れる。特に練習番号6番の個所は重要で、ファゴットによる動機C+Dとトロンボーンの2度で上下する音型の組合せは、この楽章のコーダに反映される。
 これに続いてコントラバスを除く弦楽器群が、動機C+Dを8小節間強烈に演奏する。その上に乗る木管楽器の上昇音型も、コーダの最後に現れる。
 突然、大太鼓が、8分音符4つ、8分音符を2つ、4分音符2つの連続した8つの音を叩く。これは、動機Cに関連する動きであるが、打楽器のみで演奏される第2楽章の重要な主題となる。
 次に、木管楽器が動機C+Bでフーガ的な動きを続ける。ヴィオラに、2分音符でゆったりとした動き「ド♯‐↓ソ‐↓レ♯‐↑ラ♯」が現れるが、これは動機@とAの組合せ音型である。
 このように音楽の景色は変わるが、主要動機のほとんどは、練習番号5番の前の9音音階による5種のスケールが出る個所までに出現し、動機の組合せによって音楽が進む形は最後まで変わらない。
 主題Aが再びホルンによって再現されて、コーダの最後は、弦楽器による動機Aで終わる。

第2楽章
 この楽章は、打楽器の演奏、及び弦楽器を弓の木の部分で叩く奏法により構成されている。たとえ安価であっても、弦楽器を弓の木の部分で叩く指定は、奏者にとってあまりにもスキャンダラスである。初演、あるいは他国に於ける再演の際には、どのように対処したのだろうか。デュラン社のレンタル楽譜には、作曲者の指定に代わる演奏方法の痕跡は何も残っていない。今日の演奏では、弱音指定の部分は指で楽器を叩き、フォルティッシモ指定からクレッシェンドする部分については、効果を求めて木製の棒で床を叩くこととした。
 1913年パリで大スキャンダルとなった「春の祭典」の初演から14年を経た当時であっても、打楽器のみで、交響曲のひとつの楽章を作曲することは、誠に破天荒なことであった。しかし、この交響曲の他の楽章に於ける打楽器の書法には節度があり、古典的に抑制が効いている。
 この楽章の構成は、A‐B‐A´‐コーダからなる三部形式である。内容的には、第1楽章の作曲技法に準拠している。
第1部は、2/4拍子で、ほぼ8小節、4小節単位で音楽は進む。リズムによる対位法的書法、リズムによるフーガ的書法は、第1楽章と同じである。
 第2部は、3/4拍子となり、第1楽章の動機Cで始まる。第2部の中もa‐b‐a´の三部形式で構成されていて、このことを勘案してこの楽章の全体構成を見ると、きれいに二重のアーチ型が架けられている新古典主義的構成である。
 第3部は、2/4拍子に戻り、第1部が短縮されて最初の51小節間が再現される。終結部の開始部分では6種のリズムが組合わされ、激しく高揚して終わる。
 この「6種」の動機の"数"は、第3楽章へ引継がれる。

第3楽章 (動機No.は、楽章内のみ有効)
 6種の動機を対位法的に繰り出すオムニバス的な楽章である。
 最初に、ホルン(動機@)とトランペット(動機A)の二重奏で始まる。次に、クラリネットが、この交響曲の中では唯一の民謡風の旋律(動機B)を歌う。これに合せて、ティンパニが完全4度の関係にある音を交互に3連符で静かに叩く。(動機C)その間、同時に動機Aもホルンによって奏される。民謡風の動機Bが様々な歌い継がれた後、独奏ヴァイオリンが高い音域で伸びやかに演奏し(動機D)、これに独奏コントラバスが動きのある動機Eを合せる。金管楽器による9声部の合奏を経て、動機E、動機B、そして動機@が弦楽器とホルン及び木管により厳しく再現されると、コーダに入る。動機@からEまで"6種の動機"が揃って一緒に12小節間演奏されて、静かに終わる。

第4楽章
 6/8拍子で快活に始まる。開始早々の第1ヴァイオリンに、第1楽章コーダの弦楽器の動きが間欠的に表れて、この楽章の性格を暗示する。
 他の楽章と同様、並列的な構成をとっている。6/8拍子の音楽が終わると5/4拍子となり、トロンボーンが「第1楽章の動機B」から導きだされた動機を提示すると、続けて弦楽器が「第3楽章の動機E」を提示する。「第1楽章コーダの弦楽器による動機」、「第4楽章冒頭の増2度」、「半音からなる3音の動機を逆行、反行させた音型の動機」、「第1楽章の動機C」などが次々と繰り出される。要するに、全楽章の動機を組合わせた音楽に仕立てている。
 ティンパニが7/4拍子で激しく2度繰返すと、音楽は5/8拍子の静かな、しかし緊張した音楽となる。第1&2ヴァイオリンで、第4楽章冒頭の動機の音価を変えて、静かに始まる。これ以降の音楽は、第4楽章の動機を中心に展開される。5/8拍子が高揚すると、突然、4/4拍子となり、中低弦に「ゴジラ」のメイン・テーマを連想させる「ファ‐↓ミ‐↓レ‐↓レ♭‐↑レ‐↓レ♭‐↓ド」という動機が出る。弦楽器中心に、緊迫しながら高揚して行くが、同時に、管楽器は弦楽器の弾く動機や、第4楽章冒頭の動機の音価を拡大して、これに重ねる。音楽が静まって、4/4拍子のPrestoとなる。ヘミオレの木管楽器の音の動きは、第4楽章冒頭の動機や、第1楽章の動機Aなどが見え隠れするが、最後は第4楽章冒頭の動機が明確に繰返されて終わる。
 西洋古典音楽の伝統を踏まえた、野心的な実験的秀作と言える、チェレプニン28歳の時の作曲である。チェレプニンが、伊福部が21歳で書きあげた「日本狂詩曲」(1935)のスコアを見た時には、その力量に少なからず驚いたはずである。

初演:1927年10月29日パリ コンセーヌ・コロンヌ 指揮:ガブリエル・ピエルネ
編成:2fl(pic持替), 2ob, 2cl, 2fg, 4hrn, 2tp, 3tb, tu, tim, bd, cym, s-cym, sd(open), sd(off), tri, tamb, t-t, cast, 弦楽5部
使用楽譜:スコア&パート譜 デュラン社(パリ)レンタル楽譜

池野成:ラプソディア・コンチェルタンテ(1983)

 放送初演にあたって、作曲者が解説した文章がある。
 『独奏ヴァイオリンとオーケストラのために書かれたこの協奏的作品は、これまで研究し育んできたアジアの音素材により作曲されています。即ち、我が国の古い人声による音楽、声明などにみられる旋律形の断片にはじまり、作曲者の心に充たされた音のルーツ。チベットのラマ教の典礼音楽、アジア・アフリカに共通するような打楽器群の響きなど、それらを集積し、自由な変容を加えることによって、協奏曲の完成を試みました。
しかし、ヴァイオリンという楽器を意識すればするほど、民族的な素材に傾いて、当初のヴァイオリン協奏曲というよりRAPSODIA CONCERTANTEをもってタイトルとするに相応しい曲に仕上がりました。』
 この作品は、1983年に完成した。打楽器と金管楽器群への執着、強烈に解き放たれる音響エネルギー、内に秘めた潜在的エネルギー、まとわりつくエロティシズム、トランス状態にまで達しようとする土俗的リズムなどが、作品の特徴を形作っている。
 作品は単一構成で書かれているが、二楽章形式とも捉えることができる。練習番号49〜51の経過部を境に、第一部は作曲者の解説にあるラマ教の典礼音楽を中心とした世界、第二部はアジア・アフリカに共通するような打楽器群の響きを中心とした世界で構成されている。最初はヴァイオリンの独奏で始まる。ミ音に落着こうとするが、徐々にその音程を拡大して、5度の重音と減7度の重音を繰返しながら上昇する。ついには、上の音が四点ミの5度重音に達して序奏を終え、第一部の音楽を暗示する。
 旋律楽器たるヴァイオリンのための協奏曲は、日本においては不思議なことに、前衛音楽の実践が始まり衰退するまでの1960年代から1970年あたりにかけて、大栗裕、三善晃、間宮芳生、外山雄三、伊福部昭、小倉朗、石井眞木ら、十数曲が作曲されているが、その後同種の創作は衰退する。この作品と同年のヴァイオリン協奏曲には、一柳慧の「循環する風景」がある。1990年代の作品に、湯浅譲二「In Memory of 武満」(1996)がある。池野作品は、日本のヴァイオリン協奏曲の歴史の中で異彩を放っている。

放送初演:1983年NHK「現代の音楽」 東京フィルハーモニー交響楽団 Vn:磯恒男 指揮:山岡重信
編成:3fl(pic持替), 3ob(cor-i持替), 3cl(b-cl持替), 3fg(c-fg持替), 4hrn, 3tp, 3tb, tu, tim, bd, t-t, chin-cym, timbales, cow-bell(F), a-cym(E,G), 2b-tom(E,F), a-conga(B), 2t-conga(G#,A), b-conga(E), guiro, 弦楽5部
使用楽譜:スコア 作曲者、パート譜 オーケストラ・ニッポニカ作成

伊福部昭:シンフォニア・タプカーラ(1954/79)

 1979年に改訂されたこの作品の初演(1980)のプログラムに掲載された、作曲者の言葉がある。
 『作曲者の言葉 作者は、アイヌ語でシャアンルルーと呼ぶ高原の一寒村に少年期を過ごしました。そこには、未だ多くのアイヌの人達が住んでいて、古い行事や古謡が傳承されていました。
 タプカーラとは、彼等の言葉で「立って踊る」と云うような意をもち、興がのると、喜びは勿論、悲しい時でも、その心情の赴くまま、即興の詩を歌い延々と踊るのでした。
 それは、今なお、感動を押え得ぬ思い出なのです。
 その彼等への共感と、ノスタルジアがこの作品の動機となっています。
 作品は、中学一年からの友人で、博識な音楽評論家である三浦淳史君に献呈されています。
 彼は、少年である私をそそのかし、私を作曲と云う地獄界に陥しいれたメフィストフェレスなのです。』

 さらにプログラムには続けて、"解説"として短い説明がある。
 『初稿は1954年暮れに完成、翌1955年1月26日、アメリカ、インディアナポリス・シンフォニー・オーケストラ、指揮フェビアン・セヴィッキイによって初演された。しかし、その後、作者はこれに飽きたらず数年前より改訂に着手し、昨年十二月にこれを脱稿した。作者によれば、主たる改訂は、一楽章の冒頭、二楽章の中間部、三楽章の結尾部に行われたと云う。』

 第一楽章:レント モルト〜アレグロ、第二楽章:アダーヂオ、第三楽章:ヴィヴァチェ。
 西欧の三楽章形式の交響曲様式の見本のような指定である。 しかし、"シンフォニア"であるこの作品が、西欧的な交響曲の概念に合致するのは、三楽章形式である、ということだけと言っても過言ではない。

第1楽章
 この楽章の形式は、"交響曲"でありながら、西欧の交響曲の約束事のソナタ形式はとらない。「伊福部昭の宇宙」(編者相良侑亮 音楽之友社 1992)という本の中で、音楽評論家・小村公次氏が「シンフォニア・タプカーラ」その他について論(第一部 第六章 作品の特徴とその構造)を展開していて、大変に興味深い。『 〜中略〜 提示・展開・解決という三区分を明確に構成として持っているのが伊福部音楽の特徴である。 こうした楽曲展開の手法は中心となる主題(楽想)の生成・発展・クライマックスという形で物語っていくスタイルであり、伊福部音楽に特有のものといえる。』
 形式は、前後に序奏と終結部を持つ三部からなる。44小節間に及ぶ終結部のうち、最終の17小節はコーダとも言うべき部分を構成している。序章:冒頭〜練習番号2まで。第一部:練習番号2〜13まで。第二部:練習番号13〜40まで。第三部:練習番号40〜45まで。終結部:練習番号40〜最後まで。
 この楽章では、いくつかの主題、または動機があらわれるが、これらはいつも並列的に現れる。
 ここで、思い出すことがある。前述の伊福部・古稀CDの座談の中で、伊福部は次のように語っているのである。『「シンフォニア・タプカーラ」は、新古典主義の作品である。作曲の理想は、ストラヴィンスキーのカプリッチォである。』この言葉に松村禎三は、これは驚いた、と反応している。カプリッチォとは、「ピアノと管弦楽のためのカプリッチォ」(1929)のことで、ストラヴィンスキーの作品の中でも典型的な新古典主義に属する作品とされている。ストラヴィンスキーは自伝の中で、次のように述べている『(カプリッチォという形式は)エピソードの並置によって音楽を発展させるいき方を私に可能にさせてくれた。』(塚谷晃弘訳 ストラヴィンスキー自伝 全音楽譜出版社1981)
 以下、分析の全容を述べるだけの余裕はないので、この際に指摘しておきたいことを中心に書きとめる。
 序章では、この楽章の主要動機を含む主題旋律(主題A´)が、チェロとファゴットによってノスタルジックに、且つ雄大に提示される。その音階は、「レ‐ミ‐ファ‐ソ‐ラ‐シ♭‐ド‐レ」である。主題旋律は、大きく三つの動機に分けることが出来る。第1の動機部分の2小節は音階の下部、レからラの5度の音程間で構成され、第2の動機部分は音階の上部、ラからレまでの4度の音程間で構成されている。動機の詳細は、以下である。動機@:「レ‐↑ラ/ソ‐↓ファ‐↓ミ‐↓レ/ラ‐↓レ‐レ‐↑ラ‐ラ‐↓ソ」。動機A:「ラ‐↑レ/ド‐シ♭‐ド‐レ/レ‐↓ラ」。動機B「ド‐↓ソ‐↑ラ‐↑ド‐シ♭‐ラ‐ソ」(譜例1〜3)
 前述の伊福部古稀の座談の中で伊福部は、動機@について語っている。『(シンフォニア・タプカーラの冒頭は)困ったことに、「キージェ中尉」に似ているんですよね。』と。動機@が、プロコフィエフ(1891〜1953)作曲の「キージェ中尉」(1934)の第2曲「ロマンス」の主題と一致するのである。一致するだけではない、興味深いことがある。この動機@に一致する部分の「ロマンス」の主題の続きを見ると、「ファ‐↑ソ‐↑ラ‐↑シ♭‐↓ラ/↓ソ‐↓レ」となっている。この旋律の前半4つの音を、音列技法の逆行形として見ると、タプカーラ第3楽章の冒頭主題の音型(主題B)に合致するのである。
 筆者は、ただ曲想が似ている、誰の影響を受けているという指摘だけをすることを好まない。ある程度の力量を持つ作曲家であれば、指摘を受ける前にそれを自覚できることは当然であり、そうした事象は必ず故あって、作曲家が意識的におこなっていること、と考えるからである。しかし、その"意識的"の内容を、的確に指摘することは容易ではない。プロコフィエフは、伊福部が音楽にのめり込み始めたころに衝撃を受けた作曲家のひとりである。ストラヴィンスキー(1882〜1971)には、とりわけ大きな衝撃と強い共感を持ち、中でも「春の祭典」(1913)については語ることが尽きなかった。
 「シンフォニア・タプカーラ」の第1楽章には、めずらしく半音音階が多用されている。この、半音音階で音楽の一部を構成する方法やその多用について、これは推測の域を出ないが、筆者は「春の祭典」第一部「序奏」の楽想を思い浮かべる。これには理由があり、理由は最後に述べる。
 さて、チェロとファゴットで始まった序奏が終わると、アレグロで第一部に入る。
 直ぐに、この楽章で最も重要な主題Aが木管楽器で、6小節間提示される。主題Aは、主題A´の動機@の下降する「ソ‐ファ‐ミ‐レ」を、動機Aの「ド‐シ♭‐ド‐レ」の音型に入れ替えた旋律である。主題Aは、行きつ戻りつする音を微妙に入替えながら、繰返される。繰返される間に、7/16拍子の動きを含む主題、動機、半音音階の短い経過部などが挿入される。
 練習番号10の4小節後には、第2楽章冒頭のハープの下降するオスティナート音階「ラ♭‐ソ‐ファ‐ミ♭‐レ♭‐ド」(譜例4)の後半4つの音と、音程関係が同じ音階がファゴットに現れる。続けて、フルート・ヴァイオリン・ヴィオラによって32分音符で細かく刻み、下降しながら最初のミ音に戻ろうとする特徴的な動機「ミ‐レ‐ミ‐ド‐ミ‐シ‐ミ‐ラ」(譜例5)が現れる。常に戻るミ音を除けば、これは序奏動機@の中間4つの音の音程関係と同じである。こうして、前とは違う特徴的な動機が現れた様に聴こえても、既に、あるいはこれから現れる動機が巧妙に仕組まれている。
 これに続くフレーズにも仕組みが隠されている。練習番号11番から、木管楽器と弦楽器によって、オクターブの跳躍を持つフレーズが4小節間、突然出現する(譜例6)。第1小節目は16分音符6つ&8分音符1つ、第2小節目は16分音符8つで、このパターンを2回繰返す。このフレーズには、2つの要点がある。ひとつめは、アクセントが付くパターン型のこと。仮に、総てを16分音符に分割したとすれば、第1小節目のアクセントの位置は、「3−3−2」に分けた、各頭の位置にくる。第2小節目のアクセントの位置は、「2−3−3」に分けた、各頭の位置にくる。(但し、第2小節目"2"の頭はアクセントがなく、強拍と見なす。)すなわち、4小節間のアクセントの譜割りは、「3−3−2/2−3−3」×2回となる。このアクセント・リズム型が、前述の「カプリッチォ」の第1楽章のコーダに出現する、重要な統一テーマの16分音符によるアクセント譜割り「3‐3‐2/2‐3‐3/3‐3‐2」に相当するは、偶然だろうか。要点のふたつめは、フレーズの最初の2小節間、「ミ‐ソ‐ラ」を繰返すこと。
 「ミ‐ソ‐ラ」は、この4小節間のフレーズの後、すぐに続けて2小節間、4分音符と8分音符2つの組合せで2回歌われる(12頁譜例6)。実は「ミ‐ソ‐ラ」は、「交響譚詩」の両楽章の循環動機なのである。そして、この動機は、次に続く楽想を引出すために置かれたのである。
 なぜならば、これに続く第二部練習番号13から始まる部分は、弦楽器とハープによって、オクターブの跳躍をもつ16分音符のリズムが刻まれる上に、トランペットが動機Aの真ん中の音列を吹くのだが、この部分は、「交響譚詩」第1楽章練習番号19番から、同じように弦楽器とハープがリズムを刻む上に、コール・アングレとトランペットが哀愁を帯びた旋律を奏する部分と同じ楽想である。すなわち、自作の楽想の引用なのである。 
 第二部は進み、強烈なテュッティの一撃に半音階で駆け上がり、1/8、2/8、1/8と3回のゲネラル・パウゼを繰返すと、冒頭序奏の主題A´が現れる。
 第二部の構成は、ここまでの楽想、すなわち序奏主題、主題Aの動機を、様々な独奏楽器に託して、多彩な管弦楽手法でこれを装飾しながら歌うことと、序奏的なゆったりした楽想を、交互に3回並列的に繰返す。ここでも、繰返される"部分"は微妙に変容する。なお、独奏楽器が旋律を歌う時に、コール・アングレトとトロンボーンなどの、独創的な組合せが見られることも特筆しておきたい。
 2回目に出現する序奏的楽想では、クラリネット・ヴァイオリン・ヴィオラによって、「ラ♭‐シ♭‐ド/ラ♭‐シ♭‐ド‐ミ♭/レ‐ド‐ド」(譜例7)という動機が提示される。この動機は、第1楽章終結部及びコーダの主要動機として扱われるほかに、第2楽章では練習番号5番でクラリネット・ヴィオラに現れて、メリスマ的な「ラ♭‐ソ‐ラ♭‐ソ‐ファ」(譜例8)という、オーボエによる伴奏音型を引出す役割を果たす。(役割の理由は、クラリネット・ヴィオラの「ミ♭/レ‐ド」が、オーボエの「ラ♭‐ソ‐ファ」と同じ音程関係を持つからである。)さらに、この重要な動機、「ミ♭/レ‐ド」或は「ラ♭‐ソ‐ファ」は、第3楽章の冒頭主題(主題B)に直接つながる。
 トロンボーンの下降するグリッサンドで終結部に入る。これまで述べた動機が、もれなく変容しながら再現されて、熱狂して終わる。

第2楽章
 伊福部の最上の楽曲のひとつであろう。深い歌が、北の大地の自然を連想させる感動を誘う。楽章の最後は、オーボエが「ラ♭‐ソ‐ラ♭‐ソ‐ファ」と吹いて第三楽章冒頭主題(主題B)の音形を内在させながら、ティンパニが第3楽章冒頭主題(主題B)のリズムを添えて、第3楽章の音楽を予告する。この時ヴィオラは、「交響譚詩」に良く出現するベル・トーンを連想させて、第2楽章冒頭主題の開始音「ド」に回帰して静かに終わる。

第3楽章
 この楽章こそ、「立って踊るアイヌの踊り・タプカーラ」を空想させる。音楽は開始から沸騰する。最初に出現する最も重要な主題は、木管楽器群に現れる「レ‐レ‐↓ド♯‐↓シ‐↓ラ/‐↑シ‐シ‐シ」(譜例9)である。(主題B)主題Bは、レ音からラ音に向かい、主題Aは、第一楽章冒頭でラ音からレ音に向かった。
 この楽章でも主題、動機は並列的に置かれ、前後の動機に関連性のない動機が突然挿入されることで、一層ラプソディックな性格を色濃くしている。第1楽章、第2楽章の動機が、形を変えて出現することを指摘しておきたい。
 例えば、練習番号19番の5小節目以降に、ヴィオラ・フルートで歌われる「シ♭/(シ♭)‐↑レ‐↓シ♭‐シ♭‐↓ラ‐↓ソ/↑ラ」(譜例10)は、第2楽章終了前のホルンの音列から出ている。また、この後直ぐの練習番号21に弦楽器によって出現する、4度、5度、増5度の音程を含む、リズミカルに跳躍するフレーズは、第1楽章主題Aの変容である。なぜなら、4度、5度は主題Aの要であり、増5度は主題Aを伴奏するコントラバスの「レ‐↑シ♭」のオスティナートの音型であるからである。
 第3楽章のコーダは、練習番号47の1小節前のトランペットの装飾音を含む「ド‐↓シ‐↓ソ‐↑シ‐↓ソ」(譜例11)と、練習番号50直前のTom-Tomによって、オーケストラ全体が号令をかけられて、段階的に高揚する。最後の10小節は、第2楽章冒頭オスティナートの最初と、第3楽章この4度、5度、増5度の音程動機のテュッティで第1楽章主題Aを回想して、熱狂的に終わる。

「シンフォニア・タプカーラ」の謎
 ここからは、「シンフォニア・タプカーラ」の謎を推理する。この交響曲には、「交響譚詩」の楽想の引用、プロコフィエフの動機の直接の引用がなされ、ストラヴィンスキーの楽想の"陰影"が、注意深く刻まれていることを述べた。なぜ、「交響譚詩」の楽想とプロコフィエフの動機の引用がなされているのか。
 「交響譚詩」第1楽章第2主題は、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番冒頭のクラリネットによる主題に酷似している。(構造的には、リムスキー=コルサコフ「シエラザード」シャリアール王の主題にも近い。)これを伊福部は、自覚していたに違いない。なぜならば、伊福部は力量のある作曲家であるからだ。兄・勲の死を悼み捧げた「交響譚詩」を作曲した時間は、アイヌの歌や踊りの思い出と共に、伊福部20代最後の北海道に於ける"ノスタルジア"であったのではないだろうか。「シンフォニア・タプカーラ」は、伊福部が理想と語るストラヴィンスキーの楽曲、そして故郷で過ごした時間を織りこんで編み上げた、上等な手触りのタペストリーである。

初演:1955年1月26日インディアナポリス(米国) インディアナポリス・シンフォニー・オーケストラ 指揮:フェビアン・セヴィツキイ、改訂初演:1980年4月6日東京文化 会館 新交響楽団 指揮:芥川也寸志
編成:pic, 2fl, 2ob, cor-i, 2cl, b-cl, 2fg, c-fg, 4hrn, 3tp, 3tb, tu, tim, 3tom, sd, timbales, guiro, hp, 弦楽5部
使用楽譜:スコア 日本作曲家協議会刊、 パート譜 オーケストラニッポニカ作成、東京音楽大学付属図書館寄託分