「町人の都」と日本の作曲  片山 杜秀(慶応大学法学部准教授)

 日本近代を代表する西洋クラシック音楽畑の作曲家で、日本人として初めて本格的な交響曲やオペラを拵えたのは山田耕筰(1886〜1965)である。《赤とんぼ》や《この道》だってある。山田は東京の本郷で生まれ、上野の東京音楽学校(現東京藝術大学音楽学部)で学んだ。が、途中がある。山田が音楽の基礎を勉強し、後の作曲家への道を開いていったのは、実は岡山や神戸でのこと。神戸では私立のミッション・スクール、関西学院の生徒だった。この時代の経験がとても大きい。
 山田の同時代的ライヴァルと呼ばれていたのは信時潔(1887〜1965)。母校の東京音楽学校で作曲教育を担い、義務教育の唱歌のグランド・デザインにも携わり、《海道東征》や《海ゆかば》を代表作にもつ。彼の生まれはどこか。大阪である。育ちも京都や大阪だ。実父も養父もプロテスタントの牧師だった。中学は大阪の市岡中学。関西での少年時代の音楽生活がのちの信時をはぐくんだと言ってよい。
 山田と信時の次世代から楽壇に登場し、日本作曲界の新しい指導者と言われたのは菅原明朗(1897〜1988)である。弟子の深井史郎は、山田と信時が「歌もの」中心であったのに対し、菅原は初めて器楽を芯に据えて創作したと、師を称賛し続けた。《明石海峡》をはじめとする管弦楽のための名作群がある。彼の出身地は代表作の曲名通り、兵庫県の明石。造り酒屋の息子だ。お金持ちである。中学は京都府立二中。この時代に大阪の陸軍第四師団軍楽隊(その後身が現在、存続の危機に立たされている大阪市音楽団だ)の指導者たちと親しみ、西洋音楽に開眼した。後はほぼ独学。自由な気風の人だった。
 菅原よりも7つ年下で、東京音楽学校に学んで信時の地位を受け継ぎ、昭和初期からの日本作曲界を牽引し、芥川也寸志や黛敏郎の師ともなったのは、橋本國彦(1904〜49)である。歌曲の《お菓子と娘》や《舞》などによって知られているだろう。彼は山田耕筰と同じく東京は本郷の生まれ。しかし育ちは大阪。北野中学の卒業生だ。中学時代に作曲を始め、楽譜を山田耕筰に送って見て貰ったりしている。
 山田、信時、菅原、橋本。日本近代作曲史の背骨をかたちづくる四人が、揃いも揃って明治後半から大正にかけての神戸や大阪で音楽の経験や勉強の土台を作っている。やはり偶然とは思われない。明治維新から半世紀前後の日本で、お金にも出世にもつながらないかもしれない、しかも男子の仕事としては如何かとまだまだ思われがちだった西洋クラシック音楽の素養を培い、それに人生を捧げようと決意する。そういうことを許す気風が東京よりも大阪にあった。そう素直に考えてよいのではあるまいか。
 なぜそうなのか。日本史家、三浦周行の大正時代の名講演「町人の都」の冒頭がやはり思い浮かぶ。「近世江戸時代の大阪は全国における諸大名領地の産米を始め、多くの国産の集散地で、天下の台所といわれ、それを取扱うために巨万の富を重ねた富豪は多く長者鑑を賑わして居った。大阪は江戸と同様、幕府の直轄地ではあったが、将軍のお膝下でなかっただけ、従属関係はやや希薄であった代りに、市民の自治の観念が盛ん(だった)。当時の大阪は町人の楽天地、理想郷であった。」
 町人に大切なのは一般に、天下国家のことよりも趣味や遊興などの私的な世界であり、それに没頭できる自由な環境の保持である。個人としてなるたけ好き勝手をしたい。お金があればそのために使いたい。それが何か悪いのか。そこで悪いと言う文化が強ければ、西洋クラシック音楽なんて「無駄でお高くとまったもの」になかなかうつつを抜かせない。大阪圏にはそれを悪いと言わない文化が多少なりともあったのだろう。「町人の都」の伝統だ。
 本日の四人の作曲家はそうした系譜の延長に語れると思う。大澤壽人は神戸の実業家の子。宅孝二は堺の造り酒屋の子。共に「長者鑑を賑わして居った」富裕な家の師弟。大澤は山田耕筰と同じ関西学院の出身。宅は同じ造り酒屋の子の菅原明朗の門下。大澤と宅は共にフランスに行き、ジャズに傾倒しもする。四天王寺のお寺の子の清水脩は大阪外国語学校で合唱のクラブ活動に、船場の商人の子の大栗裕は天王寺商業学校で吹奏楽のクラブ活動にのめりこむ。そして趣味を職業へ。清水は橋本國彦の弟子となる。大栗が大阪の吹奏楽の伝統によって育てられたというのは菅原明朗の経歴とかぶる。清水と大栗がオペラ作曲家として山田耕筰の続きになるよい仕事をしたことも見逃せない。上方の歌舞伎や文楽の伝統がどうしたってそこに背景としてある。
 「町人の都」を通じて日本の作曲を見直し、聴き直そう。

2012年9月2日 第22回演奏会プログラムへの寄稿より転載