山田一雄没後20周年記念/交響作品展

 指揮者として知られている山田一雄が亡くなってから、今年は20年目にあたる。山田の指揮ぶりは人々の記憶に強く残っていて、昨年から今年にかけて数多くの演奏録音記録が掘り起こされCDとなって、改めて注目を浴びている。
 その指揮と人柄は優しく同時に厳しく、個性的で鮮烈な訴えかけがあり、天と地を自らが語って相応しい山田一雄のような音楽家はもう現れないかもしれない。
 山田は作曲家を志し、19歳の年には自伝にも書き記している無調のピアノ作品を作曲した。当時、作曲界を牽引していた山田耕筰は45歳の壮年、鬼才・橋本國彦は27歳の若さであり、大澤壽人、深井史郎、平尾貴四男、松平頼則は23歳、尾高尚忠、清水脩、安部幸明が20歳、早坂文雄、伊福部昭、小山清茂は17歳であって、それぞれの輝かしい才能を発揮しようとしていた。なんと華やかな時代であったことだろう。

 山田は、1912年東京に生れて1991年横浜に没した。東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学し、G.マーラー(1860〜1911)の弟子であったドイツ・バイエルン出身の指揮者であるクラウス・プリングスハイム(1883〜1972)に強い影響を受けて指揮と作曲とを師事した。指揮者として輝かしい業績を残し、国内外の管弦楽作品を多数初演、新交響楽団(現・NHK交響楽団)や京都市交響楽団、群馬交響楽団、新星日本交響楽団(現・東京フィルハーモニー管弦楽団と合併)、神奈川フィルハーモニー管弦楽団などの発展に尽くしたほか、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団ほか海外の数多くのオーケストラにも客演した。また、母校である東京藝術大学指揮科の教授として教育にも力を注いだ。山田に師事した指揮者としては、石丸寛、小林研一郎、小泉和裕、矢崎彦太郎、松尾葉子、手塚幸紀、田中良和、本名徹次らが活躍をしている。
 山田よりも先輩の指揮者であった朝比奈隆(1908〜2001)は作曲をしなかったが、大先輩近衛秀麿(1898〜1973)と、山田のライバルであった尾高尚忠(1911〜1951)は作曲をして作品を残している。
また、山田と同年の世界的指揮者を挙げてみる。チェリビダッケ、マルケヴィッチ、クルト・ザンデルリング、ショルティ、ヴァント、ラインスドルフ、ヴェーグと、ため息がでるほどの逸材揃いである。しかも、その半数以上はみな作曲家でもあった。山田の時代は、指揮者が作曲をして当然であったのである。
 山田一雄の作品のうち「コクトー・三題」(1935)、「宮澤賢治・三章」(1940〜55)、「祖師谷より」(1945)などの歌曲はよく歌われているが、管弦楽作品は演奏される機会がない。作品の数々を演奏すれば、指揮者として生きた一人の作曲家の歴史を辿るばかりではなく、同世代の日本と世界の指揮者たちが生きてきた時代の息吹を確かめる機会にもなることであろう。

 山田の初期の管弦楽作品は、後期ロマン派とフランス音楽の影響を強く受けながら複調での作曲を試みるなど、独自なモダニスト振りが発揮されている。作曲者27歳の時の作品であり円熟した管弦楽書法を見せている「交響的木曾」。日本には数が少ないオーケストラ付き歌曲である、「日本の歌」。交響組曲「呪縛」は、日本では音楽作品として残ることの少ない創作バレエ音楽の貴重な作品のひとつであり、「おほむたから」は太平洋戦争終戦間際に作曲された問題作である。
 20世紀の日本の管弦楽作曲家のなかで、独自の個性を発揮した山田一雄作品を再評価する試みに期待をしていただきたい。