オーケストラ・ニッポニカの皆様へ

 日曜日の素晴らしいコンサートをありがとうございました。作品もさることながら、演奏の素晴らしさ、作品に対する理解と熱意と共感を体当たりで聴衆に届ける皆様の演奏に心から感動しました。当日のコンサートが光栄にも日本近代音楽館へのオマージュとして届けられましたこと、関係者のひとりとして、この上ない幸せでした。感謝のことばもありません。

 当日演奏された作品の作曲者たち、深井史郎も彼より七歳年下の伊福部昭も、音楽の途を選び、作曲家として出発したとき、日本は既に戦争下にありました。否も応もなく、いわゆる15年戦争下に創作を始めなければならなかった若き作曲家たち。いくさを続ける国家の論理に絡め取られそうになりながら過す日々。そのなかで、彼らが何を考え、どのように身を処そうとしていたか、それは本当に作曲家ひとりひとりの問題であり、その表現もひとりひとり異なります。伊福部昭と深井史郎に共通点を見出すとすれば、それは、おそらく、知識人としてのすぐれた資質―-鍛えられた知性と常に理性的であろうとする意思、時代を包む狂気のなかで正気を保とうとする意思、であるように思えます。
 伊福部昭の「寒帯林」第一楽章の、針葉樹林を渡っていく風のような音楽は、敗戦を確実に知っている自然科学者のまなざしでもあったのではないでしょうか。
 深井史郎は、「平和への祈り」のメッセージのなかで、「祈り」では何か力が弱く「平和へのたたかい」でなければならないようである、と云います。大木惇夫の詩の美しさはほとんど懺悔の美しさに尽きますが、深井史郎の音楽はそれに、平和のために主体的にたたかうこと、個々人の主体性をかけてたたかいとることの意味を与えました。あの二重フーガの力強さはそれを示してはいないでしょうか。深井史郎は、敗戦直後の文章「戦慄のあと味」(1946.3)のなかで、8月15日、突然敗北を知らせる玉音放送に空虚な響きしか感じることができなかったこと、そして、そのとき、欺瞞に踊らされていた「私たちの教養が如何に形骸だけのものでしかなかったかが明かにされた。この点に関しては誰に責任を転嫁することも出来ない私自身の問題であった。」と書きます。戦中ずっと「いろいろな条件を理性的に判断すると答はいつも『敗北』でないことはない」と思っていた深井史郎がなお自らを愧じて書く。

 戦争は社会を変え、ひとりひとりの人間の精神に大きな影響を与えます。苛酷な経験を強いられた人々の沈黙の重さは、いつか私たちにも訪れるかもしれない、逃げたくなるような体験の辛さを伝えているように思えます。そのようなとき私たちがどのように対処できるか、が問われているようにも思えるのです。戦中の作品を取り上げることは、「歴史的意味」(便利な言葉です)があれば何でも、というわけではなく、創作者の思い、場合によっては、のちに思う恥の感覚、とり返しのつかない、できれば消しゴムで消してしまいたくなるような慙愧の思い、を含めてまるごと引き受けることではないでしょうか。そして、さまざまな意味で時代の良心を示す音楽の存在を伝えること、それにはすぐれた見識と柔らかな感性が必須です。オーケストラ・ニッポニカをおいてほかにない、と私は思っています。 Viva Nipponica!!

 日比谷公会堂に響き渡ったニッポニカのあの日のあの音楽は、新しい環境のもとで今後展開される新・日本近代音楽館の活動への力強いエールと心得ました。近代音楽館へのご支援、今後とも、どうぞよろしくお願い致します。

 重ねて御礼申し上げます。  感謝をこめて

旧日本近代音楽館・林淑姫拝
2010.8.9朝