音楽を紡ぐ「志」のリレー 〜日本近代音楽館に寄せて
「2010年8月8日第18回プログラムより転載」
岩野 裕一

 私が「満洲国」に存在したオーケストラに興味を持ったのは、矢野暢・京大教授による聞き書き『朝比奈隆 わが回想』(1985年、中公新書)を読んだのがきっかけだった。そのころ大学で日本の近現代ジャーナリスム史を専攻していた私は、朝比奈氏の口から語られる、戦時中の上海やハルビンで指揮したというオーケストラの思い出に強く心動かされ、やがて『王道楽土の交響楽 満洲――知られざる音楽史』(1999年、音楽之友社)という一冊の本を物すことになる。

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 いまでこそ、いわゆる「十五年戦争」の時代におけるわが国の音楽活動については、若い研究者を中心に活発な研究がなされており、それをタブー視するような風潮はほとんどないといってよい。だが、あえて誤解を恐れずに言えば、日本の社会全体が左派文化人の強い影響下にあった戦後社会において、戦争をめぐる時代の文化活動については、“触れられたくない過去”として多くの事象が封印されてしまったのは事実であり、こと音楽の世界においてその傾向が強かったことは否定できないだろう。
 あれだけ多くの演奏家や作曲家が満洲に向かいながら、日本の音楽史からすっぽりと抜け落ちてしまったその部分を埋めることが、「日本人にとって西洋音楽とは何か」という大きな命題を解く鍵になる――朝比奈氏が言外に示してくれたこの“宿題”を解くために、私は10年がかりで大勢の人を訪ね歩き、さまざまな資料を渉猟していったが、そこで大きな助けとなったのが、国立国会図書館と、日本近代音楽館の存在であった。
 満洲国の音楽活動について、朝比奈氏の回想以外にはまとまった形での資料がほとんど存在しない中で、「新聞には、驚くほど多くのことが記録されている。どんな分野のことでも、当時の新聞を丹念に追っていけば、多くのことが見えてくるはずだ」という大学時代の恩師・春原昭彦教授の教えに従い、国立国会図書館や大連市図書館に所蔵されている新聞のマイクロフィルムを十数年分、それこそ目を皿のようにして調べ上げたことが拙著の“骨格”となっているが、それを“肉付け”することができたのは、まさに日本近代音楽館のおかげであった。
 都心とは思えない静けさに包まれた麻布台の地にあって、わずか500円の年会費で、私のような門外漢の研究者に対しても門戸を開いてくれただけでなく、使いやすい広くて大きな丸い机も、レファレンス用に完備された参考図書のかずかずも、書架に並ぶ最新の各大学の紀要も、完備された音楽雑誌の目次一覧も、そして凛とした閲覧室の空気そのものも、いま思い起こせば、すべてが創設者の遠山一行氏と高い志をもったスタッフによって形作られたものであったに違いない。
 あの膨大な資料――しかも、関係者や遺族からの寄贈によって、増え続けていく資料を収容し、整理していくだけでも気が遠くなるような作業だったはずだが、その手を休める間もなく、来館者や外部からの問い合わせに対応しなければならなかったスタッフの皆さんに対しては、感謝の言葉もない。そしてなにより、遠山氏がこうしたアーカイヴを設立しようと思い立たなければ、貴重な資料は散逸し、われわれが研究したくてもできない状況がさらに続いてしまったであろうことは、想像に難くない。おそらく氏は、いつか封印と呪縛が解かれる日が必ず来ることを信じて、近代音楽館という大きな“器”を作ってくださったのだと思う。

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 さて、この偉大な器に入っていたのは、楽譜や音楽書などの資料だけではない。「そこに資料がないこと」さえ、貴重な資料だったりもするのだ。
 一例を挙げよう。満洲国の黎明期に活躍した網代栄三という作曲家がいる。1914(大正3)年に神戸で生まれ、1936(昭和11)年に東京音楽学校を卒業後、新卒としてハルビン高等女学校の音楽教師として赴任した網代は、建国まもない満洲国で数少ない音楽の専門家として頭角を現し、1938(昭和13)年には『満洲ニ於ケル音楽』という著作も残している。敗戦後は京都に引き揚げ、放送音楽などの分野で活躍した網代は、満洲時代に少なくとも3曲の管弦楽作品を作曲している。
 だが、日本近代音楽館が所蔵する「網代栄三資料」の中にある、戦後に本人がまとめた自筆の「作品一覧」には、1937年7月にハルビンで初演された処女作の交響楽詩《日本の映像》(発表時の《絶望の淵に踊る魂の群》からのちに改題)と、翌38年4月に東京で初演された《フーガ的展開を持てる序曲》の存在は記されているが、1938年1月27日にハルビン交響楽団第41回定期演奏会で初演され、全満洲にラジオで生中継された管弦楽曲《皇軍賛歌》については、まったく記載がないのだ。
 戦後の網代にとっては、かつて満洲国において、日本軍を賛美した作品を書いた過去など、できれば消し去りたかったに違いない。これは網代に限ったことではなく、自分の作品一覧から戦時中の仕事を抹消してしまった作曲家は、ほかにも数多く存在する。きょう蘇演される深井史郎の《大陸の歌》や伊福部昭の《寒帯林》にしても、満洲国の諸機関によって委嘱された作品であり、その存在が作曲者自身によって否定されることはなかったにせよ、戦後長らく忘れ去られていたのはまぎれもない事実なのである。
 このように、そこに存在する資料も、あるいは存在しない資料でさえも、日本近代音楽館は私たちにたくさんのことを教え、導いてくれた。いまようやく、文化に関するアーカイヴの必要性について国レベルでの検討が始まりつつあるが、近代音楽館はその何年も前からアーカイヴとして機能し、しかも遠山一行氏個人の努力によって運営されてきたのである。それがいかに困難な事業であったか、想像するに余りある。
 今般、その遠山氏の志が明治学院大学に受け継がれ、同大図書館の収蔵資料として2011年5月から一般に公開されることになったのは、日本の音楽文化にとってきわめて大きな出来事であった。財政面の制約があったため、近代音楽館時代にはやや立ち遅れていた資料のデジタル化や目録の作成なども、おそらく今後は急ピッチで進められるに違いない。
 この両者の仲立ちをしたのは、バッハ研究の世界的権威として知られる樋口隆一・明治学院大教授だが、樋口教授の祖父だった樋口季一郎陸軍少将は、関東軍情報部直属のハルビン特務機関長に着任したばかりの1938(昭和13)年3月、ナチス・ドイツからシベリア鉄道経由で逃げ延びた2万人ものユダヤ人がソ連国境で満洲国への入国を求める事件が起こった際、そのすべてにヴィザを発給する英断を下し、彼らの命を救った軍人であった。
 ユダヤ人の多くはハルビンを経由して上海や米国に出国したが、ハルビンに残った約5千人のエミグラント(難民)と、もともとハルビンに在住していた白系ロシア人との融和を図るため、音楽愛好家でもあった樋口少将はオーケストラの活用を思い立ち、資金難に苦しんでいたハルビン交響楽団を特務機関の保護下に置く。のちに若き日の朝比奈隆が常任指揮者として赴任し、終戦直後に韓国人初の指揮者である林元植がデビューしたこの地のオーケストラを関東軍が保護するようになったのは、樋口季一郎の働きによるところが大きかった。
 そしていま、かつての満洲でユダヤ人を救い、オーケストラを助けた将軍の孫である音楽学者が、危機に瀕していた日本近代音楽館を救うきっかけを作り、われわれが再びその恩恵に被ることができるようになったのは、単なる偶然ではないように私には思えてならないのである。

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 どんな時代においても、いかなる困難があろうとも、人間と音楽への愛情と情熱をもって行動する人がいて、その志がリレーのバトンのように受け継がれていくことで、日本の近代音楽史は形作られてきたといってよい。
 この日比谷公会堂で、東京大空襲のあとも途切れることなくオーケストラが鳴り響いたのも、音楽家たちの志のリレーが続いてきた証拠だし、オーケストラ・ニッポニカの活動もまた、そのバトンを受け継いで、さまざまな理由で忘れ去られた作品を実際の“音”として蘇らせることに使命感をもって取り組んでいるわけだが、彼らの根底にあるのもまた志であろう。
 日本人にとって西洋音楽とは何か――それは、音楽が空気のように存在した西洋とは異なり、その魅力に取り付かれた人々が、愛情と志をもって守り、育てていったものではなかろうか。
 だからこそ、あるときは時代の波に翻弄され、その灯が消えるかのように思えたことであっても、いつか必ずそれを掘り起こし、受け継ぐ人が現れる。その種火を守ってくれた日本近代音楽館へのオマージュとして、オーケストラ・ニッポニカが60余年の時空を超えて演奏する作品のかずかずに耳を傾けながら、私たちもまた、日本近代音楽館へ、そして志をもって西洋音楽と向き合ってきた先人たちに対して、心からの感謝とねぎらいを捧げようではないか。

岩野裕一(いわの・ゆういち)
編集者・音楽ジャーナリスト。
1964年、東京生まれ。上智大学文学部新聞学科卒。『王道楽土の交響楽 満洲――知られざる音楽史』で第10回出光音楽賞を受賞。