鈴木秀美
   いつも楽しい難題を持ちかけてきて下さるオーケストラ・ニッポニカとのお付き合いはいったいいつからだったか。もう長年のように思うが、実は「今世紀」になってからのことだった。もちろん全ては音楽監督である本名氏との繋がりということになるのだが、ご一緒させていただいた幾つかのリハーサルを別にして、大切で今も記憶に鮮やかなのはもちろん、シューマンのコンチェルトを共演させていただいたことである。
 本当の裸ガット弦で、もちろん出来れば全てをオリジナル楽器でこの曲を弾くことは私の夢の一つであった。1982年9月以来この曲は弾いていなかったから、これは今までで一番夢に近い出来事であった。練習の時、エンドピン有りと無しを比較してみたが、面白いことに誰も「有り」の方が良いとは言わなかった。きっともう慣れていなくてよほど下手だったのだろうが、お陰で私は多分日本で初めて、あの曲をエンドピン無しのガット弦で弾くことになった。ウィキペディアによればこの曲の日本初演は1928年、近衛秀麿指揮の新響でチェロはシャピロということだから、弦はガットでも、ほぼ間違いなくエンドピンは使われていただろう。むろん、ピンの有無が良し悪しを決めるわけではない。
 演奏の出来は反省すること数多、もちろん満足というわけではないが、嬉しかったのは数多くのリハーサルであった。無制限というわけではないが、ここでは、プロのオーケストラが10分で済ませてしまうことに1時間、或いはもっと長くかけられる。もちろんアマチュアのことでもあり技術的な問題がそうさせるという面はあるが、人生の先輩も多くおられるこのグループでは、シューマンの音楽が内包する痛みや葛藤、憧れ、苦みといったものが存分に理解され、それを共有できるのだ。このような心の動きを感じ、楽譜の奥に想いを巡らせるには、演奏の腕と関係なく時間がかかるものなのである。リハーサルの時間をそのために費やせたことで、コンサートは、曲の流れがまさしく自分の人生の一部となる貴重なものとなった。曲を聴く・弾くどちらでも、それが人生の一部だということに私達は普段あまり気を遣わないが、そうであるからこそ、リハーサルの時間は貴重な人生のページなのである。
   本名氏との、そして人との出会いで始まったニッポニカとの時間は、さらにまた嬉しい出会いを作りだしてくれた。宴会の席でベトナム国立交響楽団のクァン夫妻とお会いしたことは私がそのオーケストラを振る機会を作り、さらに嵩じて今年10月に予定されているオーケストラ・リベラ・クラシカのハノイ公演にまで発展し、その後もまだ続いている。やはり宴席で出会ったダリオ・ポニッスィ氏とはその後、トッパン・ホールのニューイヤー・コンサートのため《コジ・ファン・トゥッテ》でご一緒することになった。またこれは偶然だが、今私のマネージャをして下さっている村上雄一氏と出会ったのも、シューマン直後の宴席であった。むろんこう書いてくると、これはニッポニカの縁というよりむしろ宴会が取り持つ縁、「人生は夜作られる」と言っているだけのような気がしないでもない。
   さてしかし、この度ニッポニカにご用命いただいた難題、ドヴォルジャークの作品を演奏した記憶は文字通り「前世紀」の、随分昔のことだ。むろん私もチェロ奏者の一人、あのコンチェルトを含めドヴォルジャークは好きな作曲家の一人ではある。しかし何よりドヴォルジャークやチェコと言えば、今も耳に残る鮮烈な経験を思い出さずにはいられない。
   1983年、私はプラハの春コンクールに参加したのだが、飛行機の都合で指定よりも一日早く到着せざるを得なかった。事務局の人はしかし親切で、ホテルに連絡をしてくれた後、今晩のチェコ・フィルのコンサート、もう売り切れだが来たいなら無料で一席作ってくれるという。もちろんお願いして行ってみると、美術館のように美しいドヴォルジャーク・ホール(芸術家の家)2階の、廊下の端にたしかに一つ椅子が置いてあった。プログラムはローマン・カーニヴァルと《運命》の間にヨーゼフ・フッフロが弾くドヴォルジャークのコンチェルト、指揮はノイマンだった。その時の衝撃たるや、如何にして文字などに表されようか。これがオーケストラなのか、これがホールというものなのか、そしてこれがドヴォルジャークなのか! 椅子にじっと座っていることが何と難しかったことだろう。ホール中の聴衆はドヴォルジャークという「自分たちの音楽」を心ゆくまで堪能し、オーケストラはまるでアンサンブルをしているようにお互いを熟知し、ノイマンは国民的英雄だった。たった一人ネクタイを着けていない男であった私は、まるで映画の中に放りこまれたかのようであり、しかし心の中で快哉を叫び続けていた。
 早々とコンクールに落ちてしまったお陰で、私はその後しばらくの間、外貨両替の義務もなく1日5$の部屋で過ごすことができた。プラハの街を何時間も歩き、建物を眺め、ホンモノのピルスナー・ビールを堪能した。スメタナの命日に開始する音楽祭の最も重要な「我が祖国」を聴いて再び驚嘆し、天気の良い日にはヴルタヴァ(モルダウ)に沿って歩き、樹々を眺め、カレル橋を渡り、プラハ城から街を眺めた。それは一生にそう何度も訪れない、かけがえなく静かな時であった。しかしまだ「壁」が壊れるには間があったあの頃、旅にも慣れていなかった私は少なからず緊張していたし、言葉が分からないこともあって残念ながら地方に出かけることをしなかった。今日の交響曲第8番が作曲されたヴィソカーはそう遠くないそうなので、惜しいことをしたと思う。ドヴォルジャークが味わったであろう自然については、他の場所の経験で補うことにしよう。
 ロンドンでの演奏会に向けての力作だと言われる第7番に比べると、この第8番は何と伸びやかで歌いやすいことだろう。手を変え品を変えて現れる旋律の数々は一つ一つが映画のシーンのように絵画的で、心を揺さぶり想像力を掻き立ててくれる。森の樹々や鳥の囀り、心地よい風のそよぎを感じさせるかと思えば、村人の踊りや祭りとも思える人間描写的な部分も、政治的に苦しめられた民族の情熱もあり、スラヴの自然や人々へのドヴォルジャークの熱い想いに何びとの血も熱くさせられるのだ。真ん中の2つの楽章では、上へ駆け上がったかと思うとゆっくりと下降する旋律がしばしば現れる。至る所で印象づけられるこの下降線は、曲全体がト長調と言われながらもどこか哀愁を帯び、私達の心を騒がせ掻きむしるもととなっているように思う。
   一方のハイドン、彼について、またロンドン・セットについて今更たいして説明は必要ないだろう。ロンドンに赴く頃、彼は既にヨーロッパ中に知られた巨匠中の巨匠であったし、ロンドン市民にとってハイドンの訪英は一大イヴェントだったはずだ。彼は2度のロンドン訪問、合計でも3年に満たない期間のうちに、厚遇を得ていたエスターハーズィ勤めの20年間を上回る収入を得たのである。そして彼の心はまだまだ若かったようだ。彼が60歳になんなんとする頃ある女性に宛てて書いた手紙は上品だが驚くほど情熱的で、そこらのラブレターなど及ぶべくもない。世の中はハイドンやロンドン交響曲というと、とかく教科書やお手本、記念碑的作品云々と言いたがるが、ハイドンのスコアを見ていると、彼は心理の動き、情感の襞をよくよく知った人間通であったと思わざるを得ない。今回お送りする第14番はすこぶる初期の作品で、こちらからはもちろん若々しく爽やかな楽想が聞こえてくるのだが、同時にロンドン・セットにも共通する性格や特徴が垣間見え、ハイドンの各時期の作品がそれぞれ個別に美を形作っていることを嬉しく理解させてくれる。
   どちらも田舎の出身で自然を愛するもの、そしてロンドンで大成功したということは、今回のハイドンとドヴォルジャークを繋ぐ要素と言えるかもしれない。しかしそれだけではなく、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトと共にハイドンも尊敬し好んでいたドヴォルジャークには時々、ふとそういった古典派の名残が感じられるし、ハイドンは、実はかなり東ヨーロッパ的なのである。もっとも、ハンガリー(エスターハーザがあったのは現ハンガリー領)とチェコで民族は違うのかもしれないが、並べてスコアを見ると、不思議と共通なものを感じるところが少なくない。第8番のフィナーレは最初と最後の部分が変奏曲のようになっているが、その構成にもふとハイドンの陰を感じてしまうのは私の読み過ぎだろうか。
   今年のニッポニカは、難題を私だけにではなく自分たちにも課していて、ガット弦を使おうということになっている。自身ヴィオラ奏者であったドヴォルジャーク、そしてヴァイオリン奏者であったハイドンが知っていたのはもちろんガット弦の感触だからそれを共有するのは全くもって悪くないが、ご存知の通り、扱いは容易くない。しかし、手間がかかってもできあがりが美味しければ、誰でも頑張って料理するではないか。昔の人はみんなやっていたのだから、私達に出来ないわけはない。
 チェロを弾くのに比べ、指揮には16分音符と音程がないことは楽である。しかし、自分の脳裡にある音や色、風景や想いは他人の身体や楽器から、各奏者の想いも加味されてようやく表される。そのためには十二分にその想いが伝わらなければならない。これを皆さんがお読みになる頃、私達は既に数多くのリハーサルを重ね、また杯も重ねて、人生の数ページを共有しているはずである。その結果のコンサートが聴衆の方々も含めた新たな出会いとなることを心から願っている。
【本日の使用楽譜と初演記録】
・ハイドン14番
初演:1764年以前
使用楽譜:Doblinger

・ハイドン104番
初演:1795年5月4日 ロンドン、作曲者指揮
使用楽譜:J.ハイドン研究所(G.Feder)

・ドヴォルジャーク8番
初演:1890年2月2日 ルドルフィヌム(プラハ)、作曲者指揮
使用楽譜:Barenreiter