プログラム解題
東京交響楽団の1950年代、または、青春の時代の音楽
「2008年11月30日第14回演奏会プログラム解説より転載」
オーケストラ・ニッポニカ 奥平 一
      オーケストラ・ニッポニカは発足以来6年間、主に1950年以前の日本の管弦楽作品の譜面を発掘し、ときには演奏用譜面を自ら作成して、日本の管弦楽作品の歴史をひも解いてきた。今年度はオーケストラ・ニッポニカ創立5周年を記念して、3回に亘って日本の優れた管弦楽作品を紹介するために演奏会を催している。
       シリーズ3回目となる本日の演奏会は、いずれは必ず企画しなければならないと決めていた“1950年代の作品発掘”をテーマにして、日本の管弦楽創作史上の東京交響楽団の業績を振り返るとともに、初演以来再演されていない作品を含めて実演や録音によって聴く事のできない作品(林光作品のみ市販音源あり)を集めたプログラムを構成した。
     演奏される作曲家たちは、太平洋戦争終戦直後の時代に生きて音楽を学び、作曲を開始した。そのころは昨今の世の中と違い、将来への社会的展望やイデオロギー的価値観が真剣に討議され、より良い社会の建設へ向けてさまざまな社会参加への実践が試みられたのであった。音楽の創作活動においても例外ではなかった。1945年以前の作曲家に多く見られた“欧化主義と国粋主義の衝突の克服”的な創作姿勢から脱して、それぞれが置かれた社会的立場を考察し、踏まえて、作曲の新たな考え方と技法とを、社会性を持った音楽として活かすようさまざまな試みが積極的になされたのであった。そして、本日演奏される作品は、すべて彼らのかけがえのない青春の時代の音楽の出発点である。

     1945年8月、日本は太平洋戦争に敗戦して米国を主体とする連合国に占領された。後、日本は東西冷戦の影響下、次第にアジアの「反共の砦」として米国の政策に組み込まれていく。日本社会は世界的な思想的、政治的、軍事的価値の二元的対立の影響を受ける。1950年には二元的対立の代理戦争であった朝鮮戦争が始まり、日本を好景気にする皮肉な要因として53年まで続く。1951年にはサンフランシスコ平和条約が調印されて、日本は連合国軍による占領が終了して独立する。1953年ソ連が水爆の保有を発表して、1954年には米国の水爆実験による第五福竜丸事件が起きる。日本が国際連合に加入するのは1956年のことである。
     こうした時代の動きの中で、日本のオーケストラは戦争中の打撃から回復して、活発な演奏活動をくり広げるようになる。なかでも特筆すべき活動は、上田仁(1904-1966)と斉藤秀雄(1902-1974)が指揮した1953年から1957年にかけての東京交響楽団定期演奏会であった。東京交響楽団は、1946年東宝交響楽団の名で創立、1951年東京交響楽団と改称した。1953年には、楽団の機関紙「シンフォニー」誌の編集長に秋山邦晴(1929-1996)が就任する。秋山は1951年に詩人・瀧口修造の下に、作曲家・武満徹らと共に芸術家の総合的なグループ「実験工房」を設立していた。
     この間の定期演奏会には、毎回必ず日本の管弦楽曲が取り入れられていた。演奏された作品はすべて日本の作曲家たちの新しい作品または舞台初演となる作品であり、多くの作曲家や聴衆に刺激を与えた。
     それは、日本人作曲家のラインアップの網羅性、毎回の定期演奏会に日本人の作品が組み込まれる斬新さ、結果日本のスタンダードな名曲として残りうる作品を生み出した優れた企画性などにより、現在なお回顧するに値する“オーケストラによる創造的活動”であった。(プログラム8ページ参照)
     この企画における日本人作曲家の網羅は年齢層、作風、社会における立ち位置まで実にさまざまであり、壮観である。戦前・戦中からの創作が既に活発であった蓑作秋吉(1895生)、清瀬保二(1900生)、深井史郎(1907生)、松平頼則(1907生)、早坂文雄(1914生)、伊福部昭(1914生)。頭角を現していた安部幸明(1911生)、清水脩(1911生)、小倉朗(1916生)石桁眞禮生(1916生)。作曲活動を始めつつあった戸田邦雄(1915生)、柴田南雄(1916生)、入野義朗(1921生)、石井歓(1921生)。1953年に「三人の会」を設立した團伊玖磨(1924生)、芥川也寸志(1925生)、黛敏郎(1929生)。同じく1953年に「山羊の会」を設立した間宮芳生(1929生)、林光(1931生)、外山雄三(1931生)。無名に近かった武満徹(1930生)、池野成(1931生)、篠原眞(1931生)などである。
     しかも、新しく生れた作品は35曲。現在の日本の管弦楽作品ファンに馴染みの名曲が、綺羅星のごとくならんでいる。入野義朗「シンフォニエッタ」、小倉朗「舞踊組曲」、早坂文雄「ユーカラ」、芥川也寸志「交響曲第一番」、伊福部昭「シンフォニア・タプカーラ」、別宮貞雄「オーケストラのための二つの祈り」、安部幸明「交響曲第一番」、武満徹「弦楽のためのレクイエム」等々。
     このようなプログラミングの考え方は、今日のオーケストラ活動にこそ同様なコンセプトを以って活かされなければならない。

     池野成は生涯、寡作な作曲家であったが、誰が聴いても池野の音でアジア、アフリカの音楽的要素を色濃く反映した激しく大地を踏みしめるようなリズムと重厚な音の積み重ねによる音楽を、生涯にわたって作曲した。
     入野義朗は作曲活動の出発点において、時代を反映する音楽手法として日本人として初めて作品に12音音楽を適用した。その後、日本とアジアの伝統的音楽への関心を急速に深めるとともに、アジアの作曲家たちの組織化と新しい音楽教育の組織を創ることに貢献した。
     篠原眞は前衛音楽の旗手として、1950年代から海外での創作活動を主として、あらゆる前衛音楽の技法を身に付けた作曲家である。70年代以降は「和洋の音楽的融合」をテーマとした作品を多く発表するが、残念なことに日本国内での知名度は高くない。しかし国際的には広く知られていて、70年以降今日まで国際現代音楽協会(ISCM)音楽祭における、最も入選回数の多い日本人作曲家といって良い。
     間宮芳生は、その出発点から常にたくましい民衆の音楽を見据えながら創作している。作品は器楽曲、室内楽、管弦楽曲、協奏曲、合唱曲、オペラなどあらゆるジャンルにわたって継続的且つ系統的に作曲している。また、演奏機会の多い作品を数多く生みだしている。  林光は、管弦楽曲のほかオペラや舞台作品、合唱曲、“ソング”などに社会的テーマを含んだ作品を数多く作曲している。社会的発言も多く、文筆家として著作も多い。
     間宮と林は、外山雄三とともに1953年「山羊の会」を結成。「国民音楽の創造に役立ちうるすべての活動」を標榜して、戦後の民主化運動に積極的に取り組み、さまざまな音楽運動を展開した。

     彼らの5人の作品を演奏するに当たって演奏用楽譜を調査したところ、スコア(総譜)はすぐに入手できたものの、5曲中3曲のオーケストラ演奏用の譜面の捜索は困難を極めた。結局、池野作品と林作品はこの演奏会のために新たに製作をした。ほぼ50年前とはいえ、楽譜が失われているこの事態には少なからぬショックと驚きを覚えた。ただし、東響が演奏した大多数の演奏用譜面は現在日本近代音楽館に寄贈されている。
     ともかく、作曲されてこそ音楽が生まれ、演奏されてこそ音楽が聴こえ、聴かれてこそ音楽が生き続ける。今日の演奏を楽しんでいただきたい所以である。