周到なる「パロディ」
 〜 同時代の西洋音楽と、自己の感性と
「2007年3月25日第11回演奏会プログラム解説より転載」
オーケストラ・ニッポニカ 奥平 一
深井が作曲を始めた時代
 深井史郎は、1907年(明治40)秋田の生まれ。第七高等学校(現・鹿児島大学)で物理を学び、卒業後、郷里で結核による療養生活を送った。1928 年上京して音楽を志す。1929 年東京高等音楽学院(現・国立音楽大学)及び帝国音楽学校(作曲科)などで学び、作曲家・菅原明朗に師事した。 深井は1933 年(昭和8)に、最初の本格的な管弦楽作品といえる「五つのパロディ」を作曲した(同時代の政治的、思想的背景は、本プログラムの、林淑姫氏の深井史郎論に詳しい)。
 日本の管弦楽作品の作曲の歴史は、1910 年代、山田耕筰により本格的に始まって、10 年代は山田の独壇場であった。 山田以外の作曲家の活動は1920 年代になってようやく始まり、現在私たちが一般的に録音や情報を共有できる1920 〜33 年の間の日本の管弦楽作品といえば、20 曲前後に過ぎない。
 大沼哲≪マルシュ・オマージュ≫(1927)、橋本國彦≪感傷的諧謔≫≪笛吹き女≫(1928)、諸井三郎≪交響的断章≫(1928)、伊藤昇≪マドロスの悲哀への感覚≫(1930)、近衛秀麿≪越天楽≫(1931)、大澤壽人≪小交響曲≫(1932)、大木正夫≪組曲「五つのおとぎばなし」≫(1932)、橋本國彦≪交響組曲「天女と漁夫」≫(1932)などが代表的な作品である。他に、菅原明朗≪交響詩「内燃機関」≫(1929)など、優れた作品であると伝聞されながら焼失、紛失したものもあるが、日本の管弦楽曲作曲の歴史は始まったばかりと言って良かった。
 日本のオーケストラ演奏の本格的な活動も始まったばかりで、新交響楽団(現・NHK交響楽団)の結成、及びラジオ放送初出演は1926 年、定期演奏会の開始は1927 年2 月のことであった。  深井の師であった菅原明朗はといえば、当時1930 年代には邦楽器と管弦楽のための作品を多く書いていて、代表作のひとつである≪交響詩「明石海峡」≫は1939 年の作品である。
 深井の作品からは、菅原明朗の直接的な影響はまったくと言って良いほど見られない。
 卓抜な管弦楽作品を書いた深井史郎は、西欧の作曲家の多くの楽譜と音楽に関する書物から直接に作曲技法やオーケストレーションをまったく独自に学んだようである。


創作における伝統の欠如
 明治維新以来の欧米化政策は、文化にとってもあまりに急進的であり、創作の基盤を置くべき伝統、あるいは打ち破るべき伝統が失われかけもした。しかし、美術の分野ではフェノロサ(1853 − 1908)が日本美術をいち早く再評価し、文学においては、古来からの主たる文学である和歌の伝統を継ぎ、革新を図る多くの歌人が活躍、また坪内逍遥(1859− 1935)や森鴎外(1862 − 1922)らが明治以前の史実や戯作を意識して明治維新以降の新しい価値観を創ったために、美術、文学分野の創作活動において踏まえるべき伝統は、確保されたように見える。
 しかし、音楽において日本人は、五音音階と四度と五度の音程に支配される音階から成る民謡や都節、律、沖縄の各音階によってはぐくまれた日本の音感覚を捨てて、政府の政策によって、西欧の言わば「土着音階」である七音音階や平均律へと耳を訓練して、なお且つ、幾重にも音を重ねるオーケストラ作品を書く時に、踏まえる伝統はまったく無かった。
 深井は、音楽を志す道程において、こうした不条理な条件を克服するために、自己の基盤とする伝統を「五つのパロディ」の対象とした同時代の作曲家たちの書いた" 譜面" として捉え、切実なそして必要とされる音楽性の源は深井自身の感性の中に見つけていこうと決心したのではあるまいか。


周到なる「パロディ」
 「パロディ的な四楽章」の主題構成には、その意思が見え隠れするように思える。この曲は、西欧の作曲家の楽想を真似る素振りを見せながら、内容的には第一楽章から終楽章へ向けて音階的主題を有機的に増幅、発展させて旋律を形づくり、重要な場面においては日本音楽の色濃い音程である(ということは、耳慣れた音程)4 度と5 度の音程を効果的に使用する周到な構成を取っている。しかも、終了直前には日本古謡「さくら」の断片的テーマが金管によって奏される。
(中略)
 なんという知性と遊び心と諧謔心と余裕を持った若者であったのであろうか。