大澤寿人
作曲家
大澤寿人おおざわ ひさと (1907-1953)
「2003年2月設立演奏会プログラム解説より転載」
片山杜秀(かたやまもりひで・評論家)
才能、業績のわりに不当に忘れ去られている作曲家は、どこの国、いつの時代にも居るものだが、大澤壽人は近代日本に於けるその最たるひとりだろう。
彼は1907年8月1日、神戸に生まれた。父親はイギリスに留学し製鉄技術を身につけ、神戸製鋼の創業に参画したのち、独立して大澤工業を起こした技術者兼経営者で、十分な財産家だった。大澤は何不自由なく育ち、キリスト教徒の母親の導きで少年期からオルガンや合唱に親しみ、1921年に関西学院中等部に入学してからは、神戸在住の白系ロシア人やスペイン人よりピアノを学び、同学院高等商業学部に進学後は、学校のグリークラブ、管弦楽部の指揮者等として活躍し、ピアノの腕も磨き、理論を独習して、1930年に卒業後はすぐアメリカに留学。ボストン大学とニューイングランド音楽院で、コンヴァースとセッションズについた。
アメリカで大澤は師匠たちからその才能を買われ、学位を取得し、高額の奨学金を受け、ときには西海岸に出向いて亡命間もないシェーンベルクの教室に出入りし、ボストンで室内楽や歌曲による自作発表会を開き、日本人として初めてボストン交響楽団を振って《小交響曲》(1932年)を自作自演した。その他、アメリカ時代の主要作品には、交響曲第1番、ピアノ協奏曲第1番、ピアノ三重奏曲、チェロソナタ等がある。
1934年、アメリカでの学業を終えた大澤は大西洋をパリに渡り、エコール・ノルマルに籍をおいてナディア・ブーランジェに師事し、最晩年のポール・デュカスのレッスンも数回受けた。デュカスは大澤の作品をモダンすぎるといって憤っていたという。またこの頃、大澤はルーセル、フローラン・シュミット、イベール、タンスマンらとも交流した。そして大澤はコンセール・パドゥルー管弦楽団を指揮して自作の交響曲第2番、ピアノ協奏曲第2番(独奏はジル=マルシェックス)、更にラヴェルやベルリオーズを披露し、オネゲルらの称賛を受け、1936年、意気揚々と6年ぶりに帰国して、東京で新交響楽団(NHK交響楽団)、大阪で宝塚交響楽団を振り、交響曲第2番、ピアノ協奏曲第2番(独奏はレオ・シロタ)、《小交響曲》、組曲《路地からの断章》などを発表した。しかしその評価は十分なものではなかった。当時の日本のオーケストラや聴衆にとって、後期ロマン派、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、パリの六人組にガーシュインまでを消化し、そのうえ十分な職人芸に裏打ちされた大澤の作品は、恐らくモダン過ぎ、難し過ぎた。大澤は、たとえば北海道の山奥でいきなり巨大で技巧的でバーバルなオーケストラ音楽を書いてしまった伊福部昭や、まだシベリウスしか知らないフィンランド人の前でいきなり度ぎつい無調音楽を発表してしまったアッレ・メリカントのような無理解に直面した。彼はあらゆる面で進みすぎていた。しかも彼の音楽生活の拠点は、東京よりも一段と保守的かもしれず、演奏家の技巧、聴衆の鑑賞力もまだまだ新しい音楽に適応できたとは思われない関西だったのである。
そこで大澤は、慌ててよりロマン的な作風を試し、結果としてスターリン時代に保守的な様式を強いられて生まれたショスタコーヴィチの交響曲第5番あたりと雰囲気が似なくもない交響曲第3番(1937年)、あるいはモダニズムの技法を中国大陸の戦場の音響描写に用い、聴衆への共感を得られやすく工夫した幻想交響詩《西土》(1937年、南京陥落を記念して初演)、「皇紀2600年」のための大規模かつ平明なカンタータ(《海の夜明け》と《万民奉祝譜》)、未来派的響きを戦時の軍需工場のフル操業の描写と結び付けた《鉄と火の協奏曲》(大戦末期)などを書き、また宝塚歌劇団、ラジオ、映画のための作曲に精を出した。ポピュラー音楽の語法にもアメリカとパリで精通してきた大澤は商業的な音楽分野に極めて洒落たハーモニーやリズムを提供することができた。
戦後のアメリカ占領時代になると、大澤はセミ・クラシック、シンフォニック・ポップス、シンフォニック・ジャズの領域に積極的に手をのばす。彼はジャズ風のサックス協奏曲(1947年)やトランペット協奏曲(1950年)、その他、同じくジャズ風の管弦楽曲群を次々と作曲し、映画音楽でもジャズを試し(たとえば溝口健二監督の『夜の女たち』)、またボストン・ポップス管弦楽団とかコステラネッツ管弦楽団をモデルに大阪ラジオ・シンフォネットを組織し、はじめJOBK、のち大阪朝日放送でレギュラー音楽番組を持ち、毎週30分、演奏曲目すべての編曲指揮にあたった。しかしといって彼がシリアスな音楽を捨てポピュラーに走ったと考えるのは間違いである。たとえば彼のラジオ番組の曲目はジャズのスタンダードなども含まれていたけれど、それと一緒に、ドビュッシー、ラヴェル、ファリャ、ストラヴィンスキー、プーランク、ヒンデミット、ショスタコーヴィチ等も必ず取り上げられていた。また大澤は1951年、かつて教えを受けたシェーンベルクが逝くと、ラジオのセミクラ番組の中にその追悼コーナーをはめ込み、師の表現主義的な無調による《6つのピアノ小曲》に見事な新ウィーン楽派風のオーケストレーションを施して室内管弦楽曲とし、放送している。東京で入野義朗や柴田南雄がシェーンベルクの受容がどうのと肩を怒らせていたとき、関西でいとも軽々とそういうことをやっていた人が居たのだ。いや、それはともかく、要するに敗戦直後の大澤が果たそうとしたのは、聴衆にクラシックの間口を広げ、よりシリアスな方向にまで導ければという、のちで言えば山本直純がテレビでしたような啓蒙家の役割だったと言えるだろう。このような仕事の一方、大澤は、神戸女学院で教鞭をとり、舞台や映画のための作曲も続けるなど、激務に追われ続け、念願だった交響曲第4番の作曲も果たせぬまま、1953年10月28日、まだ46歳で、脳溢血により急逝した。
そしてそのあと、関西の、否、日本の楽壇は、急速に大澤を忘れた。その忘れられ方は、戦中の日本を代表する作曲家のひとりでありながら、戦後、中国大陸に居残ったので、この国の音楽史からあっという間に消えてしまった江文也のそれに匹敵するほど極端なものだった。1930年代のうちにありあまる才気を漲らせてパリから帰り、作曲から演奏まですべてをこなし、「日本には自分のほかにプロの音楽家は居ない」とうそぶけるほどの自信家だった大澤は、他の音楽家たちからすると、やはり敬して遠ざけたい存在だったのだろう。その作品に興味を示す演奏家も研究者もあらわれぬまま、彼の楽譜は一部の出版譜を除き、死後約半世紀も神戸の大澤家に埋もれ続けた。本日の演奏はその本格的再評価のための嚆矢となる筈である。
取り上げた作曲家