信時潔
作曲家
信時潔のぶとき きよし (1887-1965)
「2003年2月設立演奏会プログラム解説より転載」
片山杜秀(かたやまもりひで・評論家)
信時潔は1887年12月29日、大阪に生まれた。父親はプロテスタントの牧師で、これが信時の人生に決定的に作用した。彼は父親の転勤に伴い、幼少年期を高知と京都で過ごし、やがてまた大阪に戻って市岡中学校に学んだが、その間、常に身近にあったのは、もちろん賛美歌だった。彼はそうした教会音楽への親しみからついに西洋音楽を志すに至り、東京音楽学校(現東京芸術大学)に進んだ。このへんの経緯は彼よりひとつ年上の山田耕筰とよく似ている。山田の場合もキリスト者が身内に居て、賛美歌に親しんだことが、音楽にのめりこむ大きなきっかけだったのである。また信時や山田は多感な十代のとき、日清戦争後の自由主義、個人主義的な気風の横溢、文学・芸術・文化・宗教への関心の高まりと、そのあとすぐやってくる日露戦争の国家主義的熱狂という分裂した2つの時代相を疾風怒濤の如く短期間に経験させられてしまった世代に属する。このへんの世代論は、彼らにとっての芸術と国家、音楽と政治の問題を考えるときに外せない。信時も山田も、日清戦争後に育ったからこそ軍人や官僚より自由な芸術家になりたくなったのだろうし、若くして日露戦争という「大東亜戦争」に匹敵する異常な国民的緊張の時代を経験したからこそ、いざというときは芸術と国家は一体になるべきだという感情を後年まで素直に持ち続けられたに違いないのだから。
閑話休題。信時は東京音楽学校でチェロと作曲をハインリヒ・ヴェルクマイスター(ベルリンでヨアヒムらに師事したチェリストで作曲家)に、指揮と理論をアウグスト・フォン・ユンケル(やはりヨアヒムについたヴァイオリニストでヴィオリストで指揮者)に学び、島崎赤太郎にも親炙し、1910年代から歌曲や合唱曲を発表するようになり、1920年には文部省派遣留学生としてワイマール時代のベルリンに行き、ゲオルグ・シューマンの門下となり、当時流行のシュレーカーの表現主義的音楽などたっぷり聴いて、それからまだまだ第1次大戦後の混乱期でマルクが弱いのをいいことにシェーンベルクやらまでの楽譜を買い漁って帰国し、1923年、母校の教授に就任して、上野に於ける音楽理論教育の柱石となり、また同校の作曲科創設に尽力、その一方で多くの歌曲、合唱曲、ピアノ曲を発表し、山田耕筰と並び称される日本作曲界の重鎮となった。
さて、彼はドイツ留学のおかげで、レーガーやシェーンベルクにまで精通したが、作曲家としては無調的傾向やモダニズムにどこまでも否定的で、やはりその作風は、幼年期に徹底的に植え付けられた賛美歌の、簡潔で質実剛健で最低限の和声付けで済みしかも噛めば噛むほど味わい深い響きをどこまでも基礎とし、更にそれを殊に日本語テキストによる声楽曲に於いては日本人の伝統的音感、日本語の韻律と調和させてゆこうとするものとなり、そういう路線は大正期から戦後まで脇目もふらずに貫かれた。たとえば信時は戦後初期、音楽評論家、富樫康の質問に答え、自らの音楽についてこう語っている。
「音楽は野の花の如く、衣裳をまとわずに、自然に、素直に、偽りのないことが中心となり、しかも健康さを保たなければならない。たとえその外形がいかに単純素朴であっても、音楽に心が開いているものであれば、誰の心にもいやみなく触れることができるものである。日本の作曲家で刺戟的な和声やオーケストレーション等の外形の新しさを真似たものは、西洋作曲家のような必然性がない故に、それの上を行くことはできない。自分は外形の新しさを、それがどうしても必要とするとき以外は用いない。外形はそれがいかに古い手法であってもよいと思う。」
信時の信念はここに尽きている。
ところで、そういう彼の「素直さ」や「偽りのなさ」が、国家に対するあかききよき心の発露としての国民歌《海ゆかば》と交声曲《海道東征》に結晶してしまったのを、彼の不幸と見る向きもあるかもしれない。が、やはり先述のように、若き日に日露戦争下の、戦争への反対賛成などという個人の感情にかかわらず、とにかく日本が滅びるか否か、国民全員が運命共同体となる他ない時代を痛烈に経験してしまい、その創作の円熟期に再び昭和の戦争を迎えた世代の作曲家が、そこで国家と芸術の一体となる緊張感を「素直」に「偽りなく」表現するのは、彼が日本国家の積極的否定者でないかぎり、当然という他ないのである。しつこく繰り返せば、日清戦争後のリベラリズムと日露戦争下のナショナリズムとを青春の両輪として受け入れてしまった世代にとって、国家社会から自由な芸術家の精神と、いったんことあらば国家に身を預け滅私奉公する国民の精神とは、相矛盾しながらもどうしようもなくくっついて離れないものなのだ。信時はそういう世代の精神に忠実かつ誠実に生きたのだと思う。
彼は教育者としては、片山潁太郎、下総皖一、坂本良隆、橋本國彦、呉泰次郎、細川碧、高田三郎といった作曲家たちを見守り育て、戦後には、靖国神社に捧げる歌なども作って、1965年8月1日に逝った。
取り上げた作曲家