宮原禎次
作曲家
宮原禎次みやはら ていじ (1899-1976)
「2003年2月設立演奏会プログラム解説より転載」
片山杜秀(かたやまもりひで・評論家)
近代日本の音楽史に於いて、山田耕筰から團伊玖磨へというひとつの道筋がしばしば語られてきた。その道筋とは次の如し。山田は「日本人は、能、文楽、歌舞伎を持ち、テキストに情緒的な音楽をつけてゆくのは得意だが、純粋器楽曲を論理的に組み立てる伝統とは縁薄く、よって西洋音楽を消化せんとする場合も、ドイツ流のソナタや交響曲よりもオペラづくりを第一義とすべきだ」と考え、オペラ作曲の前提として膨大な歌曲・童謡を生み出し、その作業の中から日本語への効果的な節づけの仕方を身に付けてゆき、またオペラへの結実を期して管弦楽曲にも手を染めた。が、そのほか彼は先駆者の定めとしてオペラ上演のためにオーケストラから組織するとか、あまりに多くの仕事をせねばならなかったので、肝腎なオペラの作曲には人生の時間が足らず、若書きを除けば、短めのオペラ・バレエ《あやめ》とグランド・オペラ《黒船》を完成させ、もうひとつのグランド・オペラ《香妃》はヴォーカル・スコアを仕上げただけで終わった。そこで、そういう山田のオペラへの志を継いだのが、山田によって作曲へと導かれた團伊玖磨になる。彼はピアノ伴奏による多くの歌曲と童謡、また管弦楽伴奏歌曲や管弦楽曲を書いて、それを《夕鶴》以後のオペラ創作へとつなげた。更に團は、交響曲作りに否定的だった山田の態度を、論理的造型をよくなしえぬ日本人の単なる開き直りと批判し、これからの日本人は論理も身に付け、その面でも欧州の文化と伍してゆかねばと、6つの番号付き交響曲を書いた……。
が、この物語はひとりの中途に居た人物――ちょうどマーラーとシェーンベルクのあいだに挟まっていたツェムリンスキーのような存在を忘れている。その名は宮原禎次である。彼は1899年、岡山の教員の子として生まれ、岡山師範学校時代にオルガンを学び、音楽教師をめざして1920年、東京音楽学校師範科に入り、そこですぐ作曲にも興味を持ち、在校中の1922年より山田耕筰にプライヴェートに学ぶようになった。学校卒業後は山口師範学校や東京府下の小学校を教師として転々としながら(*彼が勤め先をしょっちゅう変えたのは喧嘩っぱやく、すぐ上司と衝突したからだ)、山田の許へ出入りを続け、飯田信夫や大中寅二と並ぶ山田子飼いの門弟の代表的ひとりとして作曲に励み、1931年にはドイツ資本のレコード会社、日本パルロフォンの後援を得て、ベルリンに留学し(*このときの往きは《あやめ》世界初演のためパリに向かう師、山田と一緒だった)、エルウィン・クリストフとアドルフ・シュッツにつき、1933年に帰国して国立音楽学校作曲科教授となるも、ここもすぐ喧嘩して退職。1934年、宝塚歌劇団の座付き作曲家となって関西に移住するが、宝塚とも翌年喧嘩別れし、以後、神戸女学院で教え、JOBK(NHK大阪放送局)で作曲と指揮をやり、しばらく宝塚ともよりを戻し、関西で敗戦を迎えた。戦後は東京に居を構えるけれど、仕事先は相変わらず西の方が多く、NHK広島放送局の作曲家兼指揮者、武庫川女子大学音楽学部教授等を長く務め、1976年1月21日、神奈川県秦野市の病院で逝った。
さて、そんな宮原の作曲家としての志向は、師の山田と後輩の團とを見事に繋いでみせる。彼はまず山田のあとを追って歌曲や童謡を何百と書き、その一方、山田が交響詩やバレエ曲は書くけれどソナタや交響曲には不熱心なのに飽きたらず、山田に「天性のポリフォニーの持ち主」と評された才能を発揮しつつ、最初期からソナタ、交響曲、協奏曲等の絶対音楽を、歌の類いと並ぶ自身の創作の柱とし、そしてそれら歌と器楽の邂逅する場所として、オペラ作りを、作曲家としての最終目標に思い定めた。宮原が宝塚に関係したのも、彼のオペラへの夢と関係がある。結果、宮原はその生涯に、少なくとも6つの交響曲、3つのグランド・オペラ(《音戸の瀬戸》、二期会の上演した《まぼろし五橋》、《五重塔》)、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、チェロ協奏曲、ピアノソナタ等を遺した。
それから、以上のような作曲家の志の問題だけでなく、音楽の内容でも、宮原は山田から團への中間点に位置している。つまり、宮原はドイツ・ロマン派やロシア国民楽派やソヴィエト音楽への興味を山田、團と共有し、跳躍や変化音が多く落ち着きなくせわしい旋律の書き方を山田から受け継ぎ、しかしその旋律線を山田なら息みじかく切れ切れにしてしまうのに(*山田の歌曲に於ける濃やかかつミニチュアリスティックなフレーズの連鎖を思いだそう)、宮原はしばしばより息長く重厚に引き延ばそうとして、それは結果としてちょうど、息の短い山田と息の長い團(*團の音楽の売りは大陸的なフレーズの長さだ)のあいだに来、もうひとつ、宮原の管弦楽作品に於ける金管重視の朗々たるオーケストレーションは團の音楽をかなり先取りしている。実際、戦後の宮原は團におのれとの親近性を見出だしていたらしい(*因みに、宮原があと戦後に共感していた作曲家は、芥川也寸志、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ等である)。そうした宮原の存在を知ることなくして、我々は山田耕筰も團伊玖磨も、あるいは日本に於けるロマン派的・国民楽派的な音楽の系譜も、語れはしないだろう。
取り上げた作曲家