早坂文雄
作曲家
早坂文雄はやさか ふみお (1914-1955)
「2003年2月設立演奏会プログラム解説より転載」
片山杜秀(かたやまもりひで・評論家)
早坂文雄は1914年8月19日、仙台で生まれた。父の家は宮城県志田郡の地主だったが、やがて傾き、一家は1918年、新天地を求めて札幌に移った。早坂は1927年に北海中学に入り、ピアノ、オルガン、ハーモニカに親しみ、15歳のとき、作曲家になる決意を固めた。しかし16歳で父が家を出、17歳で母が病没した。早坂は幼い弟妹をかかえ、学業どころではなくなった。彼はクリーニング店や印刷所に務め、教会オルガニストをやり、商業学校や小学校で教鞭をとりながら、独学で作曲とピアノに磨きをかけた。1932年には同年齢の伊福部昭と知り合い、彼とは作曲を競う親しい仲間になった。
早坂が作曲家として世に出たのは1936年だった。この年、NHKの「祝典用管弦楽曲」の公募に彼の《2つの讃歌への前奏曲》が飯田信夫らの作品と共に入選し、さっそく山田耕筰指揮新交響楽団(現NHK交響楽団)によってラジオで初演されたのである。そしてその翌年にはピアノ曲《ノクターン第1》がアレクサンドル・チェレプニンの眼鏡にかなって日本と欧米で出版され、1939年には管弦楽曲《古代の舞曲》が、フェリックス・ワインガルトナーにより日本作曲家の欧米への紹介を目的に催されたワインガルトナー賞に、箕作秋吉、呉泰次郎、大木正夫、尾高尚忠の諸作と並んで特等入選し、いよいよその名声は固まった。早坂はワインガルトナー賞を勲章に、同年、東宝に映画音楽作曲家として招かれ、東京に居を移し、以後、持病の結核に悩まされながらも、演奏会用音楽と映画音楽を並行して書き続け、黒澤明の『羅生門』や『七人の侍』、あるいは溝口健二の『雨月物語』や『山椒太夫』のための音楽、交響組曲《ユーカラ》、《8人の奏者のための7つの部分の組曲》等々、短い人生に膨大な作品を遺して、1955年10月15日、41歳で急逝した。
早坂の作風は世間では日本的、東洋的、アジア的と称されていて、それは勿論あたってはいるのだけれど、その内実はやはりそう単純ではない。彼の音楽は潔癖というより無限抱擁型で、日本の民謡、雅楽、その他アジアの諸々の響き以外にも、グレゴリオ聖歌、ショパン、ドビュッシー、ラヴェル、サティからも常に大きな啓示を受け、それから時期によってはストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、メシアンも重要になってくる。日本の作曲家では清瀬保二、松平頼則、伊福部昭からの影響も見逃せない。そうした色とりどりのものを早坂は彼の本性たるリリカルで綿々とした語り口の中にブレンドし消化して、実に多様な作品を生み出していったのである。
そして晩年期(といってもまだ30代の末だが)、早坂はそういう変転の末に、いよいよその腰を落ち着けるに相応しい有力な態度を探り当てた。それが「複雑性よりも単純性、完結性よりも無限性、合理性よりも非合理性、立体性よりも平面性、肉食的感性よりも菜食的感性」を重視した東洋ならではの新しい現代音楽の美学である。しかし残念ながら、早坂はその美学を十二分に展開するだけの時間を持たなかった。彼は無念のまま逝くが、その未完の美学は、晩年の早坂を取り巻いていた若い作曲家たち――武満徹、佐藤慶次郎、湯浅譲二、福島和夫らによって自由に展開され、1950年代後半からの「日本独自の現代音楽」の雰囲気をかなり決定づけることにもなる。その意味で早坂は死してなお生きていた。また彼の映画音楽のやり方は、弟子の佐藤勝による、とりわけ黒澤明のための仕事にはっきりと継承された。
取り上げた作曲家