山田一雄没後20周年記念/交響作品展プログラムノート
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尊敬する山田一雄先生が亡くなって20年が経った。先生は作曲家として、そして何よりも日本のオーケストラ、合唱団、バレエ団などが本格的な活動を始めた時期から、指揮者として、教育者として日本の音楽界に確たる業績を残された。自作を含めて国内外の作品を初演指揮した数は約230曲にのぼる。
今日のステージで演奏するオーケストラ・ニッポニカの団員の中には、昔東京交響楽団で幾度となく先生と演奏をした者や、私自身を含めてもう30年も以前にアマチュアの新交響楽団でマーラー全曲演奏を共にした者、先生の演奏を聴き、酒を酌み交わし、また便りを交わした者たちがいて、当然ながら先生をまったく知らない20代、30代の若い団員たちもいる。山田先生に師事した指揮者・田中良和さんと、先生の長女でソプラノ歌手である山田英津子さんとともに、先生の管弦楽作品を演奏することがきることの喜びを、聴衆のみなさまと分かちあいたいと思う。

大管絃楽の為の小交響詩「若者のうたへる歌」 1937
 25歳の若者が作曲したこの管弦楽作品は"大人しく"書かれてはいない。管弦楽は精緻に書かれているが若者らしく書込み過ぎており、出現する音楽的動機は十分に活用されているが数が多く、全体の形式もとらえにくい。しかし、この若者はすべてを分かっていて、とらえにくい形式にも意味があり、確信をもってそのように作曲したのであろう。
当時管弦楽作品に取りこむことが珍しかったにちがいないサキソフォンとコールアングレを中心にして、"若者の歌"が変容しながら全編に歌われる。この歌に、表現主義的ともいえる手法による管弦楽が彩りをそえる。そしてクライマックスでは、5~7種の短い動機と9度、10度を跳躍する音型とが同時に演奏されて、20数小節も続く。19歳にして完全無調のピアノ作品を作曲し、その後、マーラーの数少ない弟子のプリングスハイムに作曲を師事して、『(プリングスハイム)先生から直接習う、マーラーの交響曲にみられるような豊かな音たちが自由奔放に飛び交う音楽は、わたしの気質とピッタリと一致するものがあった。』(一音百態 山田一雄 音楽之友社刊1992年)と語る若き日の山田一雄の面目躍如たる作品である。

構成は、序奏と長いコーダにはさまれた、三つの部分からなる。(第一部:練習番号1 〜 13、第二部:練習番号14 〜 18、第三部:練習番号19 〜 27)
あるいは大きくとらえてみれば、短い序奏を除いてその構成は、若者のうたえる歌が断片から始まり次第にその姿を現して、変容し、新たな歌が生れ、最後は静かにちりぢりの歌の断片となって消えて行く、という日本的な形式とも捉えることができる。
序奏は、6小節。若者が全力疾走で走り抜けるかのように激しく開始されて、トランペットの  (D、E、Fis)という動機で突然に中断される。即、ロ長調属七の和音の弦楽器が長く小さい音で鳴る。トランペットのリズム的動機と弦楽器の和音の組合せは、各三部の冒頭に必ず現れる。
このトランペットによる動機は、他の山田作品にも現れる。「おおむたから」練習番号17の直前、マーラー交響曲第5番の第二楽章を基調にした第二部へ入る雄たけびとも言える合図として。また「交響的木曾」では第二部冒頭の「サイサイ節」を導き出すリズムとして現れる。

交響組曲「呪縛」 1940
「呪縛」は、三景からなるバレエ音楽(作品13)として作曲された。第1景:黄昏の寺院、第2景:悪夢、第3景:寺院の朝。委嘱したのは、当時19歳のプリマであった貝谷八百子で、貝谷八百子バレエ団第三回目の公演のためであった。交響組曲は、公演後に作曲者によって四曲からなる作品として編まれた。一部文献には交響組曲「印度」と掲載されている場合があるが、現在組曲としてのスコアは失われていて(作成されたかどうかも不明)、パート譜面には組曲「呪縛」と記載されている。
バレエのあらすじは、初演のプログラムに次のよう記載されている。『妖しきまでに美しき「女」の化身たる燃えるような赤い宝玉――それはレモンの花かおり、菩提樹茂る神秘の国印度の古き伝説である。その宝玉が後世何人かの手によってか砂漠に近いとある寺院の仏像の左の瞳に嵌めこまれていた。その寺院に仕える一人の若き僧、彼は己の良心に戦きつつも一夜ついに怖るべき悪夢の虜となって、宝玉をむしり取り、あまつさえ殺人の罪を犯し目に見えぬ女の妖気に惹かれ、砂塵吹き巻く砂漠へとさまよい出て、御仏の呪縛にあって怖るべき悪夢の奈落へと堕ちる……。目覚むればしかし、これは一場の悪夢であった。若き僧は仏像の前に額づき目に見えぬ呪縛の綱を贖罪の心もて静かに解きほどく。八百子が自ら構想して創作した最初のドラマティック・バレエ。』
第一曲:バレエ第一景「黄昏の寺院」の序曲が終了した部分から始まり、第一景の前半部分が採用されている。フルートにはじまるエキゾティズムあふれる旋律が耳に残る。
第二曲:バレエ第二景「悪夢」の後半約3分の2の部分にあたる。ソプラノが「a-na-Sa-le-Bo-sa-da-ja・・・」と歌うが、残念ながら言語や意味は不明である。筋書きにある"目に見えぬ女の妖気"であろう。 
第三曲:バレエ第二景「悪夢」の前半にある「罪僧の舞」の部分である。質素で静かな音楽。
第四曲:バレエ第一景「黄昏の寺院」の後半部分である。弦楽器、ピアノ、ホルン、ファゴットが刻む激しい変拍子ではじまる。フルートによる歌の後にマーチが続き、最後はティル・オイレンシュピーゲルとペトルーシュカの死を連想させる楽想で終わる。これはおそらく、僧が殺人を犯す悪夢の場面。
作品を委嘱した貝谷八百子は、バレエ団第一回目の公演時にも山田一雄に作品を委嘱している。バレエ「白夜」である。また1946年に、貝谷八百子バレエ団、服部・島田バレエ団、東勇作バレエ団と上海バレエ・リュスから帰国した小牧正英が、蘆原英了のプロデュースによって第一次東京バレエ団を結成して、舞台美術・藤田嗣治によるチャイコフスキー作曲「白鳥の湖」を全幕初演した。当時オーケストラ・スコア、パート譜面が日本になかったために、山田は小牧が上海から持ち帰ったピアノ譜面を基にして、三カ月を要して全曲をオーケストレーション、指揮をしたという逸話が残っている。話はわき道にそれるが、この山田一雄版「白鳥の湖」や近衛秀麿版「展覧会の絵」1940などの譜面が見つかるならばぜひ見てみたいものである。山田は、バレエ音楽の分野においても活躍したのである。

もう直き春になるだらう 城左門・詩 1938
20世紀を代表するリリック・テナー歌手エルンスト・ヘフリガーよっても歌われたこの作品は、おそらく山田一雄の作品のなかで最も親しまれている。通常は、ピアノ伴奏で歌われることが多い。初演時の伴奏は七重奏(Vn、Vla、Vc、Cb、Cl、Bsn、Hrn)であった。オーケストラ編曲も山田によってなされている。
山田は、「コクトオ三題」堀口大学訳詩(1935)、「宮澤賢治・三章」(1940〜55)、組詩「祖師谷より」深尾須磨子詩(1945)などの優れた作品を作曲した。山田が選んだ詩人の傾向を、山田の作曲の作風とかさねあわせてみることは興味深い。
作品数が多い順番に。深尾須磨子、宮澤賢治、堀口大学、風巻景次朗、菊岡久利、城左門と並べば、キーワードはおよそ、フランス、自然、宇宙、新古今集、新感覚派、そして「夜のガスパール」となる。

日本の歌 深尾須磨子・詩 1944/1959
太平洋戦争中に少なからず皇国賛美の詩を書いた深尾須磨子は、戦後は一転して平和運動や婦人運動に取り組んだ。「日本の歌」の歌詞には、1944年という時代の空気を感じさせる言葉づかいがある。にもかかわらず、山田は大戦終了後もこの作品を大切にしていたと思われる。自筆スコア末尾には「1959年4月10日(皇太子成婚)伊藤京子、7月29日(AK国際局) 伊藤京子」と書かれており、1959年4月10日に行われた皇太子(今上天皇)ご成婚に併せて改定した版が放送初演されたものと考えられる。放送の記録としては同年4月18日(大阪)がある。
戦時の空気を感じさせる"日本の歌"であるにもかかわらず、戦後も深井須磨子の詩とこの作品を大切にしていた山田一雄の姿勢に対する考えは、「おほむたから」の解説の中で触れてみたい。
曲は極めて日本的な情緒を持って始まる。管弦楽は、歌詞の内容をあたかも視覚的に補うかのようである。「こがねなす、たり穂のみのり」と歌えばチェレスタとハープがそよぎ、「くろしほに、うろくづ踊る」と歌えばハープと木管楽器が踊るかのようにアルペジオを奏でる、とはこの作品のリハーサル中に語った指揮者・田中良和の言葉である。管弦楽の書法は、フランス音楽的な香りに満ちている。

日本の歌 現代語訳 門倉百合子(Vla)

山は紫色に 水は澄みわたり
実った稲穂は黄金色になって垂れ下がり
黒潮には魚の群れが踊り
花の木の根は八方にしっかりとはり
常緑樹の千の葉が風にさやぐ音よ
美しい国 日本
天の光り 清らかに
一族みな 心まっすぐに
親しく 力を尽くし
やまとごころ 気負い立ちながら
うたごころ おもむくままに
おおらかに
みやびやかに
三千年を経てきた
美しい国 日本
たいそう古く ますます新しく
この国は 果ての無い国
天地とともに栄えゆく国

おほむたから 作品20 1944
「おほむたから」の意味を簡単に説明すれば「(天皇の)大きな御宝」、すなわち天皇の臣民を指している。この作品は、マーラーの交響曲第五番の第一楽章及び第二楽章の楽想と、天台宗の声明の楽想、要素をあわせて作曲された作品である。山田は、声明を取りこんだとはっきり書き遺しているが、マーラーの楽想を取りこんだとは証言していない。しかし、マーラーの三連音符を伴った「運命(葬送)」を連想させるトランペットのフレーズや、伴奏する弦楽器の刻み、構成的な変わり目に現れる低音部金管楽器の8度及び12度の下降する音型、ゆったりとした弦楽器の歌、トリオ部分の導入書法、トリオ部分の激しく疾走するヴァイオリンの音型、半音階で崩れ落ちる木管群のフレーズなど、マーラーの交響曲第五番の特徴を活かしていて、マーラーを一度でも聴いたことのあるものならば必ず気がつくと断言しても良い。第五番の第一楽章と第二楽章は、同じ音楽的構成要素からなり、また強い相互関係を持っている。その中で第一楽章の際立った特徴は、葬送行進曲の「タン、タッタ、タンタンタン」というリズムである。ここで、誰もが「おほむたから」の「題名」と「音楽的内容」をどのように結び付けるかに、戸惑うであろう。「(天皇の)大きな御宝」と「葬送を象徴する音楽」。
 朝日新聞社により委嘱されたこの作品が完成したのは1944年2月5日のことで、その日、太平洋戦争の状況が日本にとって一挙に厳しいものとなったことを知らされた。スコアの最後には、『昭和十九年二月五日 東京。阿佐ヶ谷ニテ。敵クウェゼリン嶋上陸の報道をきゝ乍ら。』とある。5日の朝日新聞夕刊は、敵国が2月1日に、マーシャル諸島にあるクェゼリン、ルオット両島に上陸したことを一面で伝えている。当時マーシャル諸島は日本国領土であり、記事によれば日本国領土に敵の上陸を許したのは元寇以来六百有余年にして初めてのことであると、厳しい戦局を報道している。

戦時中の政府の文化統制に抵抗を試みた中島健蔵は、次のように回想している。『日本全体の問題を文学にふりかえへて、政治におれは身を投ずる。 中略 その当時の政治とは、ナチスのまねごとのような「文化統制」に対する文化的抵抗程度のことであった。 中略 上からの官僚統制の圧力のままに動かされていたら、大へんなことになるとわかっていたので、そういう組織(日本文学者会、日本文芸中央会)に接触しながら体当たりの防衛に当たると決心した。』(「回想の文学」第四巻 平凡社刊1977年)また、このようにも述べている。『音楽畑以外の人間として言わなければならないが、当時(戦時中)は(音楽のことが)非常にうらやましかった。かってな題をつけて、山田一雄の≪おほむたから≫と言えば、それで通ったろう。音楽というものは題なんてどうにでもつけられるんだ。 中略 文学ではぜったいそうはいかない。(文化芸術の諸領域のうち)戦争中にあんなに正統的に活動していたのは音楽以外になかった。絵も困った。ナチの場合には、そうはいかず(音楽も)専門的批判でやられたでしょう。それが日本ではのん気だから。』(座談会「日本作曲界の歩み」音楽芸術1956年9月号)当時の聴衆の一部は、「おほむたから」のレトリックを理解していたのだ。

碩学の音楽評論家片山杜秀は、「おほむたから」の題名と音楽的内容への理解について、次のように述べている。『曲の含みはもはや明らかである。それは、「一億玉砕」を決意する悲壮な歌声か、あるいはすでに玉砕してしまった近未来の「おほむたから」のための幻想の葬礼である。マーラーを知り、声明と葬儀を結びつけられる聴き手は、そのように音楽を理解するだろう。』(日本戦後音楽史・上巻 平凡社刊2007年)

それでは山田一雄自身は、どのような心づもりであったのであろうか。
スコアの冒頭には、山田が作品について書かいた文章の印刷物が切抜いて貼られている。『古事記に出てくる「おほむたから」なる言葉は、現今われわれの用ひてゐる「おほみたから」の源語である。 この「おほむたから」とは天皇の「大御田(おほむた)の田子等(たこら)」の義であつて、初め瑞穗國の農民を主とした言葉とされてゐたが、後世になつて、天皇の民を愛撫し、慈育し給ふ御心深く、従つて臣民全般に對して「大御寶」といふ大御心の御表現に尊く発展したものなのである。 さて、十四分程の短いこの曲について何等説明めいたものを書く気もしない。 只、今日の壮大な歴史の意志のなかにあつて、草莽の微忠をかたむけつくして書いたつもりのこの曲が、香氣なきいたづらな怒號に終はつてはいけないと私は幾度か筆を投げうつたことである。それはこのたぐひの題材を心なく扱う人々の氾濫に恐怖してゐる私が、ただただ斯かる題材を扱ふに適した自分の資格をつくることにまづまづ力を傾けなければと、日々思ひ知らされてゐるこのごろであるからである。』
なんとも突き放した書き方であり、説明めいたものを書く気もしない、香気なき怒号に終わらせてはいけない、このような題材を扱うにふさわしい人間として努力しなければならないと思い知らされている、と他人事のようである。
また後に「一音百態」の中では次のように述べている。『題の「おほむたから」は、古事記に出てくる言葉で、わたしはこの曲の中に、古き時代から続いてきた日本の壮大な歴史と伝説、そして美しい国土を愛する気持ちを注ぎ込んだ。 戦争の軍歌調にみられるように、香気なく、いたずらに勇ましいばかりの怒号に終始しがちな音楽の現状。音楽を戦意高揚に結びつけがちな人々の多いことへの恐怖。 中略 曲想の中には、天台宗の「声明」も採り入れた。仏教の声明には、単純な中にも複雑なリズムが介されており、ある意味において、日本の音楽の原点ともいえるものがある。この、日本固有の、優れた伝統を有する声明。不思議に人の心を突き動かすリズムをもつ声明を採り入れて、普遍的な人間愛を歌いあげよう・・・、と思ったのである。』
 
今となっては、山田の心の中は誰にもわからない。山田は、戦争で肉親を失っている。反核運動へも参画した。戦後社会からみれば、"右翼的"ともとれる詩に作曲した「日本の歌」を山田は戦後も大切にした。詩は、「三千(みち)とせを径(へ)ぬ」、「この國ぞきわみなき國」、「天地(あめつち)のむに栄えゆく國」などの言葉が天皇主権の国家観を反映しているが、基本的には日本の自然と民と歴史への感動を素直に謳っているとも言える。山田の心を推しはかる言葉として、以下を引用してみたい。
『Odero si potero, si non, invitus amabo.≪でき得れば憎悪せん、然らずんば心ならずも愛さん。≫古代ローマの詩人オウィディウスの「愛の歌」の中の一節であるというその詩句は、太平洋戦争下の日々に、一日本人としての渡辺一夫氏(注:中世仏文学者)が「この国と人間を愛し、この国のやっていることを恥じる男の一人」(「敗戦日記」「世界」1976年1月)の苦悩に耐えながら、自らを励まして生き続けるために、心中ひそかに祈りのように唱えていた「歌」であり、 後略』(「メタセコイアの光」蘆野徳子 筑摩書房刊1986年)
作品の構成は作曲者によって定義されていて、三部形式をとっている。第一部は第90小節迄、第二部は第271小節迄、以降最終335小節迄が第三部であり、最後の小節には全休符が書かれている。

大管弦楽の為の交響的「木曽」 作品12 1939
1938年から40年にかけて、NHKは日本の民謡を主題とすることを条件とした管弦楽作品の委嘱をおこなった。その結果17曲が作曲されて、「交響的木曾」はそのなかの1曲であり、そして傑作である。
作品の構成は二部に分かれている。スコアの表紙には作曲者の手によって以下のように書かれている。『前半のみ演奏する場合:★田園曲おばこ=@後半のみ演奏する場合:★交響的木曾節=x
第一部は、ゆったりとした民謡「庄内おばこ」の旋律と"こばえて、こばえて"という合いの手が作曲者流にモディファイされて用いられている。ラヴェルのマ・メール・ロアのような響きの中には既に木曾節の動機が現れる。第二部は、小太鼓とヴィオラに刻まれる特異なリズムに始まる序奏が終わると、オーボエによって俗謡「サイサイ節」が奏され、その後すぐに「木曾節」が始まる。絢爛たるオーケストレーションが繰り広げられて、最後は、「サイサイ節」と「木曾節」が対位法的に華やかに演奏されて盛大に終わる。「サイサイ節」は「ノーエ節」「農兵節」とも言われるが、「文久2年に横浜で流行した様式マーチをとりいれた旋律の曲」(大歌謡論 平岡正明著 筑摩書房刊1989年刊)であり、「木曾節」の調子の良さと相性が合って、第一部との対比がめざましい。
例のリズムは、それまでの気分が一新される「サイサイ節」出現の前に必ず現れる。